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(一)光明院

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 光明院福寶山と號し、【位置】櫛屋町東四丁所在、天台宗延曆寺末、寺格十一等。【沿革】緣起によれば、延曆二年三月桓武天皇經藏を三國の境に造らしめ、之を歌原藏と稱し、宇多天皇の朝大僧都一如榮誾經藏の畔に歌原堂を建て、【中興】順德の朝證空上人中興し、專修淨業四宗兼學の道場となり、(泉州志卷之一、古社寺取調書)福寶山不動寺と號し、當時南莊にあつた。(攝津志、古社寺取調書)第三世西山道覺法親王は後鳥羽の皇子で、天台座主として當寺を兼攝した。第五世廣惠康空(正平元年九月十一日寂)之を重興し、嘉曆三年後醍醐天皇勅願所に列せられ、後土御門天皇は第六世心地念空に歸依して戒師とし、文明十年今の地に本堂及び八院を再建し、十月遷佛會を行ひ、念空を導師として引接阿彌陀經三千部を讀誦せしめ、勅使三條西實枝をして式法中光明院の勅號を下賜せられたと云ふ。(緣起、泉州志卷之一)【舊塔頭】當市光澤寺保管大永五年十月十日附の文書に、當時衆僧として普門、壽量、長壽、心月、松林、一妙、了玄、弘秀等各寺庵の名目を列擧して居る。泉州志に所謂文明十年再建の八院であらう。(堺市史蹟志料)第十四世達空龍巴(寬永十一年八月五日寂)東福門院一周忌法要を修し、第十六世可空曇覿(寬文四年三月十二日寂)堂宇を修繕し、寶鏡寺宮染筆光明院の立額を下賜せられた。第二十八世定空卽辨は嘉永十年亦大に堂宇を修理した。當時は斯くの如く歷朝の崇信篤く、公武の歸依を聚め、【印寺領】豐臣秀吉は築尾村に於て寺領十六石の印を寄せ、德川幕府亦舊に倣つたが、(代々手鑑、古社寺取調書)明治四年正月上地した。【本尊】本尊阿彌陀如來は慈覺作禁中安置勅封の祕佛であつたが、又土御門天皇兵火を憂ひ、遷させ給ふたものであるといふ。(古社寺取調書)【堂宇】本堂、庫裏及び門は文明十年、不動堂は大永二年の建造と傳へ、(堺史料類纂)境内二百八十五坪を占めてゐる。(社寺明細帳)
 【三條西實隆の宿泊】猶當寺は三條西實隆高野參詣の途次來泊し、牡丹花肖柏を訪ひ、肖柏も亦實隆を訪ひ、翌日は光明院より肖柏をも招待して齋を供した。續いて光瑱の主催で、一座の連歌を興行してゐる。(逍遙院殿高野參詣記)【穴山梅雪の宿泊】次いで天正十年五月穴山梅雪も宿泊して居り、當時著名の寺院であつたが、(治要錄、堺鑑中)今は殆ど荒廢に歸せんとして居る。