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(八)源光寺

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 源光寺光明山と號し、【位置】寺地町東三丁字寺町にあり、眞宗本派本願寺末、寺格本座一等、【沿革】正和五年大聖院權大僧都祐源(興國六年六月十八日示寂、享年九十八歳)の開基に係る。祐源は足利義氏の四男と稱し、其師忍性四天王寺主務の際、擢んでられて勝鬘院の別當となり、次いで堺鹽穴に來り、觀音堂を再興して之に住した。一日東福寺虎關を訪ひ、偶々本願寺覺如の他力專修の法要を聞いて改宗し、新に念佛弘通の道場を建て、源姓に因んで源光寺と稱した。延元元年六月足利尊氏由來を聞き、祖先有緣の寺院として寺領若干を寄進したと傳へてゐる。(源光寺緣起、同緣起板額)第七世空善蓮如をこゝに迎へ、(源光寺緣起板額)次いで天正十三年八月顯如が貝塚より大阪へ移居の際には頗る奔走した。(願泉寺祕記)【寄進】第十五世教祐の時、靈元院法皇は八景色紙其他を、妙法院宮堯延一品法親王は大祖繪傳兩軸等を寄進せられ、肥後八代城主長岡帶刀は白石の手水鉢を寄附した。本願寺寂如、法如、文如等亦當寺に來化した。【屬寺】南庄の玅玄院松平勝山の夫人が、寬文八年兩親菩提所として營造し、同院は累世當寺隱居の繼承住持するところで、若し之を缺く時は當寺住職の兼攝する慣例となつて居た。(源光寺緣起板額)【寺家】寶永元年の記錄には寺家に等覺寺の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【本尊】本尊は傳春日佛師作の阿彌陀如來で、【堂宇】本堂、庫裏、客殿、鼓樓、鐘樓、土藏、門あり、境内五百五十三坪を有してゐる。(社寺明細帳)