慈光寺は無量山と號し、俗に紺屋道場と呼ぶ。【位置】中之町東三丁字九艘小路にあり、眞宗本派本願寺末、寺格本座一等。【沿革】楠木正勝の子金胎寺城主太郞左衞門正吉和泉丹下庄に於て樫木屋道顯に會ひ、蓮如の道譽を聞き、直に出石に赴いて徒弟となり、圓二房賢知と號した。(慈光寺緣起)賢知、道顯、正祐(善教寺の開基)は堺の三坊と稱せられ、蓮如の化導を援けて泉南の宗風大に興起した。(慈光寺由緖書)賢知の子河内の觀心寺に出家し、東寺に住し賢周と稱して眞言の博識であつたが、亦蓮如に歸して名を圓淨と改め第二世となり、大永五年權律師に補せられ、和泉、紀伊、阿波、淡路、豐前、豐後、日向、大隅、薩摩等の末寺二百餘寺を支配した。(慈光寺緣起、同由緖書)當時寺地は紺屋町にあつた。偶々京屋某なるもの歸依して門徒となり、利得を寄附し、是より紺染の職人等之に倣ふて賦金を寺納することゝなつた。【紺屋道場】故に俗間呼んで紺屋道場と云つたと傳へてゐる。(慈光寺緣起)【圓教顯如を援く】圓淨蓮如の遺骨一片を與へられ、永く佛殿に安置して渝はらず、顯如の石山退去の際には、第五世圓教門徒を糾合して、之を守護し和泉深日の金乘寺に隨奉し、以て紀州の門徒に通じ、雜賀庄に移らしめた。其功勞によつて未廣と六字の名號及び慈光寺の額字を授與せられた。(慈光寺由緖書)又天正十三年八月顯如の貝塚より大阪へ移居の際には船を出して之を助け、(願泉寺祕記)慶長元年准如和泉鳥取庄に坊舍を築造するに方り、尾崎の末寺を寄進した。現在の尾崎御坊卽ち是れである。(慈光寺由緖書)慶長十九年の冬兵火に罹り、堂宇、什器等多く失はれ、楠公傳來と稱する梵鐘には罅を生じた。【移轉】又元和復興の際紺屋町の寺地を沒收せられ、中之町にて間口十二間、奧行三十二間の場所を與へられ漸く假屋を造り、玆に入佛式を行ふた。【再建】寬永十六年八月本堂再建の上棟式を擧げ、天和二年三月山門を再建した。(萬覺書御寺帳)貞享二年鐘樓を再造し、梵鐘は南孫太夫之を寄進した。(萬覺書御寺帳、御免物目錄覺)寶永元年十二月庫裏再建の上棟式を擧行した。(萬覺書御寺帳)【屬寺】當寺の諸末寺は嘉永七年の調査によると、紀伊六、和泉九、豐前二、豐後四、日向三十八(内道場二十三)、阿波三、淡路一、堺一(善宗寺)に達してゐる。(當寺國々寺末控)就中日向國飫肥領内の末寺は、住職代替りの節、末寺に相違なき旨の誓書を提出し、當寺よりも下向して其旨を傳達するを例とした。(御免物目錄覺、慈光寺文書)寺家正成寺は享和二年九月本山の許可を得て、寺號を公稱することゝなつた。(慈光寺文書)【本堂】本尊は傳運慶作阿彌陀如來、【堂宇】本堂、庫裏、客殿、座敷、小座敷、土藏、鐘樓、長屋門あり、(社寺明細帳)鐘樓は清順菩提の爲め、貞享三年三月南孫太夫の寄進になり、每朝九點を打つことゝした。故に之を九ッの鐘といふ。(慈光寺文書)境内三百七十二坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に蓮如筆親鸞眞影(灰具左上の御影といふ)一幅、土佐光信筆親鸞上人繪傳四幅、開基圓二坊賢知畫像一幅、日向飫肥城主伊東義祐畫像一幅等がある。【墓碑】墓地には伊東義祐、千利休及び畫家森井鵬洲等の墓碑がある。