ビューア該当ページ

(一六)覺應寺

652 ~ 653 / 897ページ
 覺應寺正中山と號し、【位置】九間町東二丁字寺町にあり、眞宗本派本願寺末、寺格は本座一等。【沿革】伊豫の豪族河野通有の子通元覺如に從つて覺應と稱し、正中二年日向霧島山麓に一宇を創し覺應坊と號した。是れ卽ち當寺の起源である。其後數代を經て堺に移り、第五世覺貞蓮如に師事し、坊を改めて覺應寺と號した。(覺應上人繪詞傳)當時寺地は北鏡屋町にあつたが、後現在の地に移轉した。(覺應寺記錄)【本尊】本尊傳聖德太子作阿彌陀如來、【堂宇】本堂、庫裏、玄關、納家、土藏、座敷、長屋あり、境内百六十一坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に傳聖德太子作後醍醐天皇御寄附本尊阿彌陀如來一軀、傳弘法大師作阿彌陀如來立像一軀、傳春日佛師作藥師如來座像一軀、傳藤原佐理筆三島明神一幅、覺如上人筆阿彌陀如來畫像一幅、顯如上人筆同上一幅、實正寶正僧正筆親鸞上人畫像一幅、覺應筆畫一幅、尊鎭法親王筆消息一幅、良親王筆消息一幅、顯如上人筆石山退去消息一卷、顯尊筆石山退城誓詞二卷、道晃親王筆短册一幅、中院通村筆和歌一幅、狩野山樂筆東坡鳥余之圖一幅、土佐光起筆源氏葵卷畫一幅、瑩王礀筆花鳥畫一幅、後柏原天皇宸翰色紙十八葉、後柏原天皇御寄附狩野永仙筆爪紅末廣一握、顯如上人石山合戰戰死者法會の節着用七條袈裟、德川家治所玩谷備中守寄附の手遊人形、銘國俊短刀一口等がある。

第九十九圖版 顯如書狀