【四所三昧】行基の創設と傳ふる舊堺廻りの三昧卽ち葬場址は七道西町、田出井町、三國丘町、西湊町の四箇所にある。各所の名稱は七道西町を七度三昧、田出井町を王子ヶ上三昧、三國丘町を向井領三昧、西湊町を湊三昧と稱し、【四墓所】各所を合して四所三昧とも四墓所とも云つた。(堺鑑、全堺詳志)
【七度三昧】七度三昧は七道の三昧で、七道西町千日橋の北詰土居川の傍にあつた。元祿年中住吉神輿通路の故を以て此三昧のみは火葬を禁じたが、後奉行佐久間信就の時代に王子ヶ上三昧へ移轉合併した。(堺町奉行歷代記錄)文久二年御用覺書には七堂墓所址として南側東西二十七間、北側東西二十六間と記してゐる。【踊念佛】曾て此所で踊念佛が行はれた。墓所の入口にあつた六地藏は北之橋に近い梅鉢鐵工場の南方土居川近くに安置せられ、信者の渴仰を博してゐる。
【王子ヶ上三昧】王子ヶ上三昧は田出井町にあつて舊北庄村の墓所で、石器時代遺蹟地たる松林附近の北方數町の所にある。此附近は所謂堺王子(堺王子條參照)のあつた所で、三昧の境域二十一間に九間半であつた。(元祿八年改堺手鑑)古來除地となり、其參道に當る土居川の中、神明町南側には三昧に因んだ極樂橋が架けられ、同所近くの專修寺の畔には六地藏があつたといふ。(專修寺住職談)近年迄此三昧を使用したが、今は之を停め、累々たる墓石のみが存してゐる。
【向井領三昧】向井領三昧は舊中筋村の墓所で、三國丘町反正御陵の南方向泉寺址の區域内である。其境域二十三間半に二十三間を有し、往古より王子ヶ上同樣除地であつた。(元祿八年改堺手鑑)元祿十四年堺廻四ヶ村諸色覺書には墓地内に一間半四方の瓦葺閻魔堂一宇と一間に二間の瓦葺禮場一軒とを記してゐる。現在舊址は鋤かれて畑或は人家となり、僅に數基の墓碑供養塔が存してゐるばかりである。
【湊三昧】湊三昧は舊湊村の三昧で、西湊町の中、南海鐵道と阪堺軌道との中間にあつて、最近迄西湊町の共同墓地となり、境域三十五間に十五間を有し、古來除地であつた。德川時代紀州街道の西方に位し、四所三昧中境域最も廣く、域内に二箇所の寺院があつた。(堺全詳志)現在墓地内には行基菩薩と記した碑石を建てゝゐる。