【所在】
千利休屋敷は
宿院町西一丁字中濱東側にあつた。併し
利休は信長、秀吉に仕へてからは堺に在住する日は少かつたであらう。屋敷町は
宿院今市町と傳へ(
堺鑑)今の
宿院町西一丁字中濱筋に當つてゐる。(元祿二年堺大繪圖)【舊址】同町四番地辻本英一氏住宅は其舊址と云はれ、
利休當時の
椿井、六地藏の石燈籠、
手水鉢の茶室等が殘つてゐる。【
椿井】
椿井は庭園内にあつて地上二
尺四方の苔むした井筒があり、地下は圓筒型に掘られて水面迄三丈餘の深さである。六地藏形の石燈籠と織部好の
手水鉢は
椿井の西側にある。【
利休好の茶室】
利休好の茶室は庭園の東にあつて、西側北端にニヂリ口があり、二疊臺目の茶室につゞいてゐる。茶室は切爐、床、疊の敷工合等は
南宗寺の
實相庵と同樣で、唯天井が相違してゐるのみである。勝手口を東へ出ると板敷があつて水屋に續き、其東端に待合がある。又屋根の西側妻入になつた所に古風な
洗心洞の板額を揭げ、室内には
大綱和尚の扁額を揭げられ、左の文を記してゐる。
「 懷 舊
加賀田氏傳領
利休宗易居士最初所住之地、弘化二年當主懷舊之餘造一室欲煮松風、
余聽歎喜號之、以懷舊賦一偈祝遠大、
忘筌屋裏一茶翁、曾有靈從在此中、忽聽慇懃造新室、喜君懷舊煮松風、
前大德七十四翁
大綱書於
長松山下」
加賀田氏は辻本氏以前の在住者を指したものである。