ビューア該当ページ

(八)千利休屋敷址

853 ~ 854 / 897ページ
 【所在】千利休屋敷は宿院町西一丁字中濱東側にあつた。併し利休は信長、秀吉に仕へてからは堺に在住する日は少かつたであらう。屋敷町は宿院今市町と傳へ(堺鑑)今の宿院町西一丁字中濱筋に當つてゐる。(元祿二年堺大繪圖)【舊址】同町四番地辻本英一氏住宅は其舊址と云はれ、利休當時の椿井、六地藏の石燈籠、手水鉢の茶室等が殘つてゐる。【椿井椿井は庭園内にあつて地上二四方の苔むした井筒があり、地下は圓筒型に掘られて水面迄三丈餘の深さである。六地藏形の石燈籠と織部好の手水鉢椿井の西側にある。【利休好の茶室】利休好の茶室は庭園の東にあつて、西側北端にニヂリ口があり、二疊臺目の茶室につゞいてゐる。茶室は切爐、床、疊の敷工合等は南宗寺實相庵と同樣で、唯天井が相違してゐるのみである。勝手口を東へ出ると板敷があつて水屋に續き、其東端に待合がある。又屋根の西側妻入になつた所に古風な洗心洞の板額を揭げ、室内には大綱和尚の扁額を揭げられ、左の文を記してゐる。

「 懷 舊
加賀田氏傳領利休宗易居士最初所住之地、弘化二年當主懷舊之餘造一室欲煮松風、
余聽歎喜號之、以懷舊賦一偈祝遠大、
 忘筌屋裏一茶翁、曾有靈從在此中、忽聽慇懃造新室、喜君懷舊煮松風、
  前大德七十四翁大綱書於長松山下」
 

 加賀田氏は辻本氏以前の在住者を指したものである。