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(三)宿院

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第百五十三圖版 尾垂(宿院町)

 
 
 【所在】堺市内第一の歡樂境宿院は大町東一丁にあつて、公園地と御旅所境内地とに分れ、【名義と面積】公園地は四百六十三坪六合一勺五才を、御旅所境内地は百三十一坪九合七勺五才を有してゐる。
 【宿院公園宿院公園は御旅所境内地を圍繞する四周の地を包括し、【境域】東は活動寫眞常設館電氣館、西は大町東一丁の民家、南は宿院町北側の道路、北は西同樣大町東一丁の民家に接した四百六十餘坪の市有地である。當公園は大正四年十月大正天皇御卽位記念事業として設置せられ、翌五年十二月に完成したもので(堺市事務報告書、公園沿革調査書)あるが、區域狹少且つ市内目貫の盛り場である關係上、【施設】北西二方に僅かの植込を設けた外は施設の見るべきものがない。附近には活動寫眞館を始め、各種興行場、宿院青物市場、山之口筋、魚店等の市場があつて、絶えず雜踏してゐる。【御旅所境内地】宿院御旅所は公園の中央十間二餘四方の塗の玉垣を繞らした區域内で、住吉、大鳥兩社の攝末社がある。【參道】御旅所は阪堺軌道宿院停留所の東に當り、【甲神社址】東六間筋の畔に頓宮の扁額を揭げた石の大鳥居を東へ拔け宿院町東一丁消防ポンプ置場の前に「甲神社阯」の碑石があるところから山之口筋を橫切れば、間もなく宿院公園となる。入口の北側に手水屋形があり、屋形の東方にの鳥居を建て、鳥居の左右より前記御旅所の周圍を繞らしたの瑞籬がある。瑞籬の畔の神輿臺に目通一丈三、高さ三丈の老松が繁茂してゐる。【神輿臺】又鳥居を潜れば正面に神輿臺がある。神輿臺は所謂御旅所の神輿安置用で、每年七月三十一日の夜大鳥神社の神輿を、八月一日の夜住吉神社の神輿を此處に迎へて壯嚴なる祭典が執行される。【住吉神社】神輿臺の東に住吉神社境外末社住吉神社、【井瀨神社】大鳥神社境外攝社井瀨神社が西面して南北にならび、其北に神人の詰所がある。【飯匙堀】又御旅所の西南十數間、宿院町東一丁字山之口筋東側に飯匙堀がある。堀は東西五間四寸、南北五間四四寸、深さ一間一五寸、周圍に東西十間一四寸、南北七間三九寸の石玉垣を繞し、東に鳥居を附して正面としてゐる。此堀は形が飯匙に似た所から名づけられたもので、彦火々出見尊が三村明神卽ち鹽土老翁の計に從つて海神宮より干珠滿珠を得、滿珠を住吉の玉出島に、干珠を此堀に埋めたので、今も猶如何なる強雨があつても此堀に水を湛える事がないと傳へてゐる。(堺鑑、和泉名所圖會)斯して古來住吉神社の神輿宿院に渡御せらるゝ時、此處に禊事を行ふを例としてゐる。

第百五十四圖版 宿院住吉・大鳥兩社頓宮

 
 

第百五十五圖版 宿院新舊比較見取圖

 
 
 【元祿頃の狀態】此地德川時代にあつては元祿元年に出來た和泉國村高幷名所古蹟集に境内一丁四方とし、入口は住吉の吉字を象徵して十一口とし、周圍にチリヤタラリ川を繞して西方川尻から水流を海に注ぎ、川口の沖合二丁の所に楠の鳥居があつたと記してゐる。又元祿二年の堺大繪圖によれば東は絹屋町一丁目、同二丁目、西は東六間筋及び鹽物棚町、南は宿院南半町及び有樂町、北は川端町に接した東西八十四間(新間九十一間)南北六十間(新間六十五間)を記してゐる。此神域内中央に住吉明神の御旅所、西南に飯匙堀、東方に名越岡、東北に御祓之鄕屋敷がある。御旅所は周圍東西八間(新間八間四)南北八間半(新間九間一二寸五分)の瑞籬を繞し、西方中央を入口とし、鳥居を建てゝゐる。飯匙堀は東西六間(新間六間三)、南北六間半(新開七間二寸五分)名越岡は南北二山に分れ、北に鹿島、南に香取の兩祠がある。【境内舊址】以上の舊址中、境内址は今日の大町及び宿院町の東一丁、同二丁に跨る區域に當り、其東南端は宿院町東二丁十九番地艮清吉氏所有の工場に、西南端は同町東一丁十六番地長谷川久吉氏住宅の勝手口附近に、東北端は大町東二丁二十四番地北川兼太郞氏住宅地に、西北端は同町東一丁十番地山口寅太郞氏住宅西北隅より六間三東入の地點に相當してゐる。從つて之を現在の宿院公園及び宿院御旅所境内地とは逈に廣大で、飯匙堀、電氣館、卯之日座、宿院青物市場等の地域も境内であつた事が知られる。【名越岡舊址】又名越岡は現在御旅所の東方、開口神社南門筋を中心として南北に跨つた地域で、其南北兩丘の境界は現在御旅所南側の筋と解して大なる誤がないから、北丘は現在卯之日座附近に當り、南丘は宿院青物市場附近に當る事となる。更らに元祿二年圖には鹽屋町の南端、現在宿院町東一丁二十二番地市場佐平氏の住宅は住吉神社祠官津守若狹守の掛屋敷となり(元祿二年堺大繪圖)同じく現在消防ポンプ置場の所に甲明神があつた。然し其後區域漸次縮小して遂に現狀の如くなつたのである。