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(八)妙國寺蘇鐵

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 【所在】妙國寺の蘇鐵は同寺客殿前方の庭園にあつて、其親株妙國は大正十三年十二月九日内務省より天然紀念物に指定せられた。妙國は嘗て織田信長の爲めに安土城に移植せられたが、異變を示して當寺へ復植するに至つたと傳へられ、更らに蘇生物語となつて人口に膾炙されてゐる。其に據ると信長復植の後次第に枯死せんとした時、精靈が現はれて妙國寺開山日珖に教へる所があつた。故に上人之を德正神と崇め、教により鐵屑を與へた處忽ち蘇生した。之より荑蕉の名を俗に蘇鐵と云ひ、德正神德正殿に齋くに至つたと云ふのである。(德正殿由來)【庭園の規模】庭園の規模は客殿の前一帶を通路とし、其前方の大土壇には蘇鐵妙國を植ゑてゐる。妙國の東方、寶藏の北一帶に南之山、中之山、北之山と稱する三土壇があり、其境界は累石を以て溪流を現はし、石橋を以て互に連絡し、南之山に文珠乘、草之庵、龍ヶ珠、普賢座、中之山に華巖、花之都、淨名、指鬘、北之山に法尚、雪童と稱する蘇鐵を植ゑてゐる。(堺史料類纂、妙國寺住職聞書)【妙國】就中大土壇の妙國は親株に當り、德川家康宿泊の際「妙なりや國にさかえるそてつ木の聞しにまさる一もとのかふ」と詠じてから其名を得たと云はれてゐる。(堺大觀)周圍五丈六餘、高さ二丈餘、大枝三十九本、小枝八十八本を有し、株下、東北隅に利休好六地藏の石燈籠一基があり、【文珠乘】次に文珠乘は寶藏の北、南之山の西南端にあつて、周圍一丈三餘、高さ一丈二餘、數連の枝蔓をなし、形狀文珠獅子に乘るに似たる爲め、其名をなしてゐる。【草之庵】草之庵は文珠乘の東北にあつて、周圍高さ共に一丈餘、【龍ヶ珠】龍ヶ珠は草之庵の西方、文珠乘の傍にあつて、周圍一丈二、高さ八餘、樹幹は地上より岐れて龍珠の如く、【普賢座】普賢座は龍ヶ珠の北方、南之山の北端にあつて、周圍高さ共に一丈八、大小五十餘本の枝を出してゐる。【華巖】華巖は中之山の東にあつて、周圍八餘、高さ一丈三餘、幹は直立し、樹葉先端に開いて蓮華を思はせる。【花之都】花之都は中之山の中央に抽んで、周圍八餘、高さ一丈餘、一樹四幹の形態は一眞理の都より四德の法を出だすが如くである。【淨名】淨名は中之山の西方にあつて、周圍高さ共に一丈餘、地上より岐つた幹の姿は奇雅を極めてゐる。【指鬘】指鬘は北之山中にあり、周圍高さ共に一丈餘、姿勢優雅、【法尚】法尚は北之山の北方にあつて周圍一丈三餘、高さ一丈五、二十餘枝を出し、【雪童】雪童は北之山石橋の畔にあつて、周圍、高さ共に七を有し、園内最小の蘇鐵である。以上各木の周圍は樹幹の下を、高さは樹幹直立によつて計つたものであるから、繁茂した樹葉を包含する時は、周圍、高さは前記より逈に大となり、其風致も一層の盛觀を示してゐる。(堺史料類纂)斯くして江戸時代にありても、其名四方に高く、詩歌繪畫に寫されて喧傳せられてゐた。左に奧野小山の銕蕉歌を摘記しよう。
【銕蕉歌】

       妙國寺銕蕉歌
 妙國寺中鐵蕉樹、幾年寰宇馳芳譽、全身〓珂魚鱗重、頸質堅緻銅柱固、一根分爲十數株、枝幹曲直一百餘、高出屋檐二三丈、隆冬衝寒翠色舒、維昔室府武威弛、七道瓜分多軍壘、三好闔族據南州、侵略河泉事鞭弭、薩州之子號實休、軍役往來茅渟里、偶憩此寺結法緣、始種鐵蕉此物是、相傳織公全盛時、移之安土愛逸姿、精靈一夜入公夢、喃喃請公告言歸、翌早枝葉皆萎薾、憫惻放還泉溟湄、爾後往住示靈異、世人喧傳稱其奇、嗚呼草木何曾有此異、或説實休托怨氣、聖門語常不語恠、操筆不暇辨眞僞、君不君如今泰平如虞唐、不恠此樹似鳳翔、[銕蕉一名鳳尾蕉]故云(小山堂詩鈔