なお阿倍臣の北征について、斉明四年の記事に「是の歳、越国守阿倍引田臣比羅夫、粛愼(ミシハセノクニ・アシハセ)を討ちて、生熊(クマ)二つ、羆皮七十枚(ひぐまのかわななそひら)を献る」とある。これは羆(ひぐま)は北海道にしか棲んでいないのだから、阿倍臣の北海道遠征を確かめられる記事なのだがこの記事は、斉明五年の条に「或本に云ふ、阿倍引田臣比羅夫粛愼と戦ひて帰り、虜四九人を献る」とある記事と共に斉明天皇六年の記事にあるのが正しい。すなわち粛愼討伐は斉明六年の一回とする説が一般のようであるが、なお六年五月の記事に「阿倍引田臣、蝦夷五十余を献る。又石上(いそのかみ)の池の辺に於て、須弥山(しゅみせん)を作る。高さ廟塔の如し。以て粛愼四七人に饗(あ)へたまふ」と、粛愼来朝の記事がみえる。阿倍臣の粛愼国征討があって以来、渡島蝦夷は越の国守の管掌下に属し、その後長年にわたって来貢しているが、持統十年(六九六)三月十二日に「越の度島(わたりしま)蝦夷伊奈理武志(イナリムシ)と、粛愼志良守叡草(ミシハセノシラシュエソウ)とに錦の袍袴(きぬはかま)、緋紺の絁(ひはなだのふときぬ)、斧等を賜う」(日本書紀)とある。すなわちこの記事では渡島蝦夷と粛愼の間に交流があり、共に来朝して饗応を受けていたのではないかと思われる。
海保嶺夫は「石狩低地帯の考古学上の知見や近世の絵図、アイヌ語地名を参照した河野広道は、近世初期の地図には石狩低地帯を以て北海道を二つの島に分ける例の多いこと、沙流アイヌは石狩低地帯より東(北海道東北部)をポロモシリ、以西(北海道西南部)をエニワモシリと二つに分けてとらえている点などより、渡島とはエニワモシリを指すとしている」とし、「渡島=エニワモシリとすれば、石狩川という『大河』をかかえるポロモシリこそ『粛愼国』であり、後の『胡国』であるといい得るのではなかろうか」としている。
養老四年(七二〇)一月「渡島津軽津司従七位上諸君鞍男等六人を靺鞨国に遣して、其の風俗を観せしむ」(続日本紀)とある。この渡島津軽津司(わたりしまつがるつのつかさ)については、渡島の津軽津司とするか、渡島・津軽津司とするかでも議論のあるところであるがそれはおいて、粛愼にはミシハセのほかアシハセの訓みがあり、靺鞨はアシハセと訓み、粛愼の後裔とされているので、靺鞨が北海道の北辺か樺太かにおり、渡島蝦夷との間に交易関係があるところから、渡島津軽津司をして靺鞨の事情を調べさせたものと思われる。
なお考古学の立場から、石附喜三男は、阿倍臣と大河の畔で戦った粛愼は鈴谷式土器使用のオホーツク文化人でないかという説を出している。鈴谷式土器は樺太亜庭湾に注ぐ鈴谷川の河口左岸に位置する鈴谷貝塚から発掘された土器で、この様式の土器は北海道の日本海沿岸では稚内のオンコロマナイ、利尻・礼文両島、天売・焼尻両島及び天塩に見出され、江別市の坊主山遺跡と余市町のフゴッペ洞窟にはその少片が数点見られるという。年次は続縄文文化の末期すなわち江別Ⅲ-b式及び同Ⅳ式土器文化の七世紀半ばから後半に当たる。
さらに興味を引くのは、石狩町の八幡町ワッカオイ地点の江別Ⅲ-b式及び同Ⅳ式土器の出土する墓地遺跡で、三〇を超す墓壙が確認され、遺体の残存状況は非常に悪いが、出土した多くの歯は平均して三〇歳代であろうという。壮年者の多くの死、しかも同墓壙への複数の同時埋葬は、もしかしたら戦闘による死、それは斉明六年三月の条にある大河の畔の戦いと関連する可能性がありはしないかという。
オホーツク文化人は流鬼=吉里迷=ニヴヒ(ギリヤーク)に近い人々といわれ、ともかく渡島蝦夷はこの北方文化と、また南方からの弥生文化との接触・交流の中で大きな変化をとげ、擦文式文化の展開、アイヌ文化の形成を見ることになったと考えられている。