夷カ島へ渡った盛季の子康季、孫義季らは津軽領の回復を計ったが、事ならずに、下国安東氏の惣領家は断絶し、支族の政季が後を継いだ。
安東政季は盛季の弟道貞の子重季の嫡男で、十三湊が破れた折はまだ幼く、南部の軍にいけどられ、糠部郡の八戸で安東政季と改名して、田名部を知行していたが、享徳三年(一四五四)八月二十八日、武田信広、相原政胤、河野政通らを伴って大畑より夷カ島に渡った。湊の安東尭季は十三湊の安東盛季の弟廉季の孫で、同族の誼をもって康正二年(一四五六)に政季を小鹿島(男鹿半島)に招き、策をもって取った河北郡を渡した。政季は河北千町に知行し、以後檜山安東氏を称し、のち湊安東家を併合して代々蝦夷島を領した。
政季は小鹿島へ渡る時、下之国は弟の家政に預け、河野政通を副え、松前は下国定季に預け、相原政胤を副え、上之国は政季の婿、蠣崎季繁に預け、武田信広を副え置いた(『新羅之記録』ははじめ上之国は武田信広に預け、蠣崎季繁を副え置くとしているが、そのすぐ後の所で上之国の花沢の館主蠣崎季繁、上之国の守護武田信広と記しているので、上之国は季繁に預けたとみるべきであろう)。
当時道南には一二の館主がいたとされるが、松前、上之国、下之国の館主以外の九つの館主も安東氏の支配機構の中に組み込まれていた。『新羅之記録』も「狄の島、古へ安東家の領地たり」と言っており、館主の多くが安東氏嫡流の「季」の諱(いみな)がついていることによっても考えられる。
これら館主たちを支えた経済基盤は、アイヌとの交易や和人の漁撈狩猟などによる鷲羽、獣皮、干魚、昆布などと、若越地方を中心に日本海沿岸諸港より米をはじめ、生活必需物資をもって渡来する商人との交易であった。当時主要な交易港であった箱館について『新羅之記録』に「宇須岸(函館)全盛の時、毎年三回充(ずつ)若州より商船来り、此所の問屋家々を諸汀に掛造りと為して住む」とあり、大がかりな交易であったことが知られる。したがって、当時箱館の館主などはかなり財貨を保有していたであろうことは、志濃里(函館市志苔町)館跡近くから三個の甕と共に、三七万四〇〇〇余枚にのぼる古銭が出土していることによっても考えられる。
各館主間の経済活動に相違はあったとするも、こうした安東氏を中心に館主を核とした和人の活動は、アイヌの漁撈狩猟圏(イオル)を侵し、かつ交易も館主や和人の要求を通す形のものになり、その矛盾はアイヌ民族の和人への抵抗となって表面化してくる。