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徳川家康の黒印状

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 慶広は秀吉の死亡した翌年の慶長四年(一五九九)十一月七日、時に氏を松前と改め、大坂の西の丸で家康に謁し、の島の絵図並びに家譜を差し出し、ついで九年一月、家康より黒印状をうけた。

写真-1 徳川家康黒印状(北海道史 第一)

    定
一 自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、夷仁与直ニ商売仕候儀可為曲事事。
一 志摩守ニ無断而令渡海、売買仕候者、急度可致言上事。
   付夷之儀者、何方へ往行候共、可為夷次第事。
一 対夷仁非分申懸者、堅停止事。
   右条々若於違背之輩者、可処厳科者也。仍如件。
  慶長九年正月廿七日 黒印
          松前志摩守とのへ
(北海道史 第一)

 これは秀吉の朱印状における船役徴収権を前提としながら、さらに和人アイヌとの直売買を禁じている点、松前藩商場知行制の進む中での藩の蝦夷地交易独占権を保証すると共に、アイヌに対する和人の非分を禁止するばかりでなく、和人地と区分された蝦夷地を幕藩体制外の地として、アイヌの行動の自由を公認したものである。