このシャクシャインの蜂起は、河川の漁猟圏を巡るアイヌの集団間の対立が、アイヌのもつ領域を無視してその資源を荒らし、収奪的交易を強めた松前藩に対する闘争に質的に転化し、発展したものであり、松前藩との交易関係で自立性を保持しようとするアイヌ間の共同体首長を中心にした、アイヌ民族の広範な蜂起である。シャクシャインは盛岡(南部)藩文書の『松前蝦夷蜂起』によれば、
と東西蝦夷地にふれ廻したとあり、奥羽諸藩、松前藩ならびに幕府側には農民などの一揆や騒動ではなく、蝦夷蜂起という概念でとらえられている。
寛文九年(一六六九)七月十三日、松前藩及び弘前藩から「蝦夷人蜂起」の注進をうけた幕府は、旗本で松前藩主の大叔父御小姓組廩米千俵取の松前八左衛門泰広を松前に派し、アイヌの鎮圧に努めさせると共に、藩主矩広には特に米三〇〇〇俵を貸し与え、弘前、盛岡など奥羽諸藩への軍役発動を行い、松前藩の救援要請があった場合の出兵を認め、続いて八月二十七日、老中奉書で弘前藩に侍足軽、四〇〇~五〇〇人程の松前出兵を命じ、また盛岡、久保田(秋田)の両藩へも加勢を求められた時は松前への派兵を指令した。
泰広は八月十日松前に至って軍事指揮権を一手に掌握し、同二十一日クンヌイに至って軍議をめぐらし、三陣の総勢六二八人を率い、九月四日奥蝦夷地をめざし「夷を打殺し申候上は日本より島中え百姓被遣、田畑猟をも被仰付、兵庫家中土民迨御続ケ被成と被仰下候上は、敵味方に不寄今度は蝦夷不残滅亡の時節に在之」と味方夷をもおどし、「何とぞ其上共に働申候はゞ命相助り申事も可有之と申含候」(蝦夷蜂起)とアイヌの心服、密告、協力を要請し、進んでピポク(新冠)に至り、シベチャリにあるシャクシャインに降服をすすめ、和睦なるとみせかけて、十月二十三日、その祝としての酒宴に招いてこれを謀殺し、和人でシャクシャインに組みした者のうち、市左衛門ほか二人はこれを斬り、庄太夫は火刑に処している。