鳥屋場は鷹打にのみ限られたのではなく、知行主が宛行われた当初から夏船を出して、アイヌと取引することを認められたものか。貞享四年(一六八七)の「生類憐ミノ令」によって、御鷹献上が中止になり、知行主は鷹打による収入がむずかしくなったことで、夏船を出して知行地のアイヌと取引することを認められたものかは明らかでないが、『広時日記』による元禄五年(一六九二)五月二十三日の項に「厚谷又左衛門、大久保幸助商場しこつの夷御目見」とあり、この両家が元禄十三年(一七〇〇)の『支配所持名前帳』に見える「志古津ノ満古前鳥屋四ケ所」持の厚谷六左衛門と「志古津ノ中武川シユグノへ獣場鳥屋壱ケ所」持の大久保惣次郎のそれぞれの家筋に当たるならば、鳥屋場は当時すでに商場と呼ばれていたことになる。
商場となると知行主は米、酒、煙草類とアイヌの獣皮、干鮭などとを交易する夏商船を出していたわけだが、ただ秋味船は藩主の権利に属していた。
なお『広時日記』の五月十日の項に「松平大蔵大輔様、鷹師当秋罷下候義申来る」とあり、松前藩では翌六月、鷹の餌になる生きた鳩八〇〇羽を雇い舟で取り寄せているので、御鷹献上はなくなっても、内々には鷹打は行われていたものであろうか。この「殺生禁令」は宝永六年(一七〇九)に廃止され、御鷹の献上も復活してくるが、鷹打は再度盛んにはならなかった。