また元禄期には藩主直轄の交易地に商人が運上金を納めてアイヌと交易する商船を出していた。
『広時日記』七月九日の記事に「宮之越五郎右衛門石狩御運上先達差上け、残り金差出し遂披露候。尤皆済手形町奉行所より相返し申呉にても、来酉の年秋網地(あきあじ)の願、宮之越屋申越候由」、そして十月朔日の項には「宮之越屋五郎右衛門舟頭、酉ノ年石狩秋網地御運上の証文差出し入御披露候」とあり、宮之越屋は翌年の契約をもしている。
ただ、その運上請負の商船は、藩の監督下に行う原則がとられ、船目付として藩士が上乗りしていたが、この宮之越屋の運上船には船目付として藩士柴田善十郎が上乗りしており、帰路、柴田は船に乗らず、陸路帰って来たことで、監督不行届として三五日の登城停止処分をうけている。
これら藩士の監督下にある商人の運上秋味船は、イワナイのカンニンコルが弘前藩士に語ったように、勝手に網をおろし鮭を自由に取っていたとは考えられないが、アイヌとどのような取引をしたかも不明である。ただ水戸藩の快風丸が元禄元年(一六八八)に準商船と認められることで、イシカリ川口に来た時のアイヌとの交換比の指示は、生鮭一〇〇本に対して米一斗二升であった。快風丸は塩を持参してきて、鮭一万本ほどを塩引にして積み帰っている。
正徳年代(一七一一~一五)になると、アイヌを労働力としたかは不明とされるが、商人が簗(やな)で鮭を取っている(エトロフ島漂着記)。享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』を見ると、藩主から特に許された大川の秋味鮭は、需要も増しており、季節が遅れると輸送ができないこともあり、したがって、輸送も大がかりになるので、家中の者は寄合船を出すようになり、また商人に運上金をとってその場所を渡すものもあって、商場から場所請負への移行のようすが見えてくる。