一八世紀以降、蝦夷地から本州方面へもたらされるところの商品流通の拡大とともに、物と人、ことに商人の往来が盛んとなり、次第に蝦夷地への関心が高まった。享保五年(一七二〇)には、蝦夷地に関する最初の地理書『蝦夷志』が新井白石によってあらわされ、いっそう蝦夷地の認識が深められた。それとともに、松前地と陸続きで広大な蝦夷地を開拓して、行きづまった幕藩経済を打開しようとする意見も出されるようになった。享保三年に死去した並河天民の『闢疆録』は、蝦夷地開拓の急務を論じた先駆的なものであり、また坂倉源次郎が蝦夷地の金銀山を調査してまとめた元文四年の『北海随筆』が、蝦夷地の実状・産物を紹介するのみならず、開拓意見を述べているのは、蝦夷地の未開拓な資源に着目したからにほかならない。
こうした蝦夷地開拓意見の一方で、北方からの外国人、すなわちロシア人の出現は、いっそう蝦夷地の問題を刺激することにつながった。
幕府が、はじめてロシア人の千島への渡来について知ったのは、明和八年(一七七一)のことで、すでに三年前にロシア人がウルップ島にまで達していた。これは、ロシアにとらえられていたハンガリア人のベニョフスキー(日本名ハンベンゴロウ)が、同年土佐に漂着して、事実が具体的に語られたからである。
一方、松前藩がロシア人の渡来を知ったのはかなり早く、宝暦九年(一七五九)松前藩がアッケシでオムシャを行った時、エトロフ島より集まったアイヌより、千島の北方クルムセコタンに「あかき衣類を着した唐人」の街ができていることを聞いているし、その後安永八年(一七七九)、ロシア人がアッケシにおいて通商を要求した際、藩吏を派遣して応接さえしていたが、幕府に知らせることはしなかった。
ロシア人の蝦夷地渡来の情報は、仙台の工藤平助や林子平の著作を通じて、次第に伝わっていった。天明三年(一七八三)、仙台藩医の工藤平助は、元松前藩勘定奉行の湊源左衛門等から、ロシア人南下の情報を得、『赤蝦夷風説考』をあらわし、蝦夷地開拓に着手しないと、アイヌが日本から離れ、ロシアの側につくかも知れないと意見を述べた。また、同郷の林子平も、長崎の通詞より情報を得て、同六年『三国通覧図説』をおおやけにし、蝦夷地開拓防備の必要を力説した。