文化四年(一八〇七)、松前および西蝦夷地も直轄となり、これで松前、蝦夷地の全域が直轄となった。松前藩は、新規九〇〇〇石の土地へ移封となり、同年七月二十七日、移封地を陸奥国伊達郡ほかと定めた。
一方幕府は、東蝦夷地の永久直轄を決定した享和二年(一八〇二)二月二十三日、蝦夷地経営として、蝦夷地取締御用掛に代えて、あらたに蝦夷地奉行を置き、納戸頭取格戸川安論、目付羽太正養を任命した。これは、同年五月十日、箱館奉行に改められた。文化四年、戸川、羽太らは箱館より福山へ移り、奉行所も同年福山に移され、幕府はあらたに河尻春之、村垣定行の二人を松前奉行に任じ、戸川、羽太の二人の役名も松前奉行と唱えるよう達した。
幕府の蝦夷地経営の財政はどうであったろう。寛政十一年(一七九九)、東蝦夷地仮直轄に際して、毎年の経費を五万両と定め、ほかに諸官吏手当など約一万両、松前藩代地五〇〇〇石を支出した。これが享和二年永久直轄になると、勘定奉行の意見をいれて、蝦夷地の経費二万五〇〇〇両は収入二万両で支弁、その不足額五〇〇〇両は国庫から補給、他は国庫から支出することにした。ところが、同三年の場合、蝦夷地の収入が予想外に多く、諸経費を支弁してもなお一万両の余裕ができた。このため翌年には、一万両を箱館備金とし、予定の五〇〇〇両も国庫から受けずに自賄を原則とした。しかし、そういった状況が長く続いたわけではなかった。
文化四年、松前、西蝦夷地もその管轄に入ると、その地の収入を加えても、さしあたって多額の経費が必要なので、金三万両の支出を上請したところ、一万両は節約を命じ、金二万両のみ下げ渡しとなった。しかも、西蝦夷地の直轄は、東蝦夷地のそれと異なり、場所の直捌も行わず、場所請負人も廃さずそのまま置くことにした。
おりしも、同年四月、前年のロシア人のカラフト来襲の第一報が福山に、五月にはエトロフ島来襲の第一報が箱館に届くといった具合に、西蝦夷地直轄は、多難な時期にスタートした。