このような入会漁業が行われている場合、前述したように産物はあくまでも産出したアイヌに所属していた。ゆえに、千歳アイヌがイシカリ川で産出した産物の余剰はユウフツの集荷地へ、またイシカリアイヌがシコツ場所内で産出したそれはイシカリの集荷地へ運んで、特定の交易相手(この場合請負人)と交易するのが原則となっていた。ところが、ユウフツから日本海岸への出口にあたるイシカリへは、「国々之品々積入候商内小廻船年々川入いたし、土人共と交易いたし、夫をイヘツフトより上ミ之千年土人共は浦山敷(うらやましく)存候とて、右交易之品々イシカリ土人へ願入候」(由来記)という具合に、和産物を多く積んだ商船が川を上って交易にきていた。それをみて千歳アイヌもうらやましく思い、頼み込んで矢羽根による鷲の尾羽やかわうその皮をもって和産物と交易するようになったというのである。
このような『由来記』に記されている事実、たとえば、千歳アイヌがイシカリ川まで漁に行くことや、イシカリ川に入る商船と交易を行ったことなどは、詳細については不明であるが、一八世紀の初期の場所請負制の成立以降のことを指していると思われる。ともかく千歳アイヌのみならずイシカリ川筋のアイヌも、東蝦夷地が寛政十一年(一七九九)に幕府直轄になった頃には、エベツ川の上流に入って仮小屋をつくって漁をするなど、両者が入り混じって生活していたことも事実であったようである。そして、人と物の往来・流通の関係からか、千歳川筋の産物が、船便のあまりよくない太平洋側のユウフツに出されず、和産物が豊富に持ち込まれるイシカリ川口に運ばれるようになっていたというのも自然のなりゆきだったのかもしれない。このようなイシカリ場所とユウフツ場所の、人と物の往来・流通関係の上に、東蝦夷地の幕府直轄が強行され、イシカリ川筋のアイヌの千歳川筋に所有していた漁業権まで一方的に奪われることになった。