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元禄御国絵図

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 イシカリ川水系が、地図上にあらわされた最初はいつ頃であろうか。
 現在の札幌市域の地名がはじめて地図の上にあらわされたのは、幕府が諸藩に命じて郷帖とともに献上させた元禄十三年(一七〇〇)の領内版図(はんと)図、通称『元禄御国絵図』中の松前藩が提出した『松前蝦夷図』である。御国絵図は、これ以前正保二年(一六三一)にも諸藩に提出させたことは藩の記録にも明らかである。しかし、絵図そのものは失われている。
 『元禄御国絵図』(写真2)の特徴は、蝦夷地のほぼ中央部をくびれた形にし、そこにイシカリ川を大河に描き、それに連なる大小三つの沼をたどって東海岸に抜ける通路を朱線で示している点である。

写真-2 元禄御国絵図-部分-(新撰北海道史 第二巻所収)

 現在の石狩湾付近の地名を小樽方向に順に掲げると、「しやつほろ」、「しろの(しのろ)」、「はつしやふ」、「おたるない」、「かつちない」、「しくずし」と並ぶ。これによれば、現在の札幌市域に含まれると思われる「しやつほろ」、「しろの」、「はつしやふ」が海岸沿いにあるかのように描かれている。
 一方、イシカリ川に沿っては、「をしよろこつ」、「ついしかり」、「かばた」、「めいぶつ」、「夕別」の地名が並び、「ついしかり」付近には、現在の千歳川が合流している。千歳川を遡ると、「しままつぷ」、「いへらまこ(いへちまた)」、「つうめん」、そして「このぬま四里四方程」の大きな沼があり、周囲に「いちやり」、「おさつ」、「ゆうはり」の地名があって、「つうさん」、「しこつ」と続く。さらに朱線をたどると、「あつ石」、「ぬまかしら」の地名のある沼、さらにただ「ぬま」と記したところを通って、東海岸「あづま」に抜けている。
 この御国絵図と一緒に提出した郷帖の方はどうであろうか。「しやつほろ」以下の地名は、西蝦夷地に入れられているのに対し、「いへちまた」以下東海岸へ抜けるルートにある地名を、「いしかりよりいふつまでの部」として分けているのが注目される。いわゆるシコツ越えルートは、この地図から見る限りでもかなり古い時代から北海道島中部を貫く要路として認識されていたのである。
 このように、製作年代のはっきりしている地図で、現在の札幌市域を含むイシカリ川水系が登場してくるのは、『元禄御国絵図』をもって最初とされる。