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串原正峯

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 寛政元年(一七八九)、クナシリ・メナシ地方で発生したアイヌの蜂起事件のあと、同三、四年にかけて交易の改善を目的に幕府が各地で交易を試みたことは第五章でも触れた。
 幕府による御救交易(おすくいこうえき)は、当時場所請負制下で不正な交易に苦しめられていたアイヌ救済を目的に、蝦夷地のうち重要地点を選んで行われ、イシカリ場所では同四年にイシカリ川のについて行われた。イシカリ場所での御救交易の状況については、同年ソウヤ場所のそれに参加した串原正峯の『夷諺俗話』がわずかに触れているのみである。その一行は、ソウヤからの帰途、イシカリ川を遡ってシコツ越えして東海岸ユウフツに出たらしく、串原正峯はその著に「石狩川シコツ越の事」として次のごとく詳しく記している。
ソウヤより松前へ帰郷の節、イシカリ川より夷船にて東蝦夷地シコツといふ所へ出たり。イシカリ出舟して其夜はトマヽタエといふ所に止宿し、[此川筋止宿はみな夷小屋に泊まるなり] 二日目イベチといふ所へ着船。三日目シコツえ出たり。夫より山越をしてビヾといふ所より又船に乗る。此所よりは夷の丸木船にてユウブツといふ所へ着船せしなり。イシカリより川路山越とも三十六里余なり。

 これによれば、まずイシカリ川を舟で遡ってトママタイアイヌの家に一泊、二日目はエベツ川の落とし口に出たのだろうか。三日目になってエベツ川よりシコツ川を遡ってシコツへ出、それより山越えしてビビに出、そこからはアイヌの丸木舟でユウフツ川を下ったらしい。この間三六里余で、途中の宿泊はアイヌの家に泊らせてもらっている。