場所請負制下の札幌市域は、シノロ・上サッポロ・下サッポロ・ナエボ・ハッサムなど、イシカリ十三場所の中に数えられる漁場が点在するにすぎなかった。いわば、イシカリ場所に付属した存在で、河川流域の〝点〟としてしか存在していなかった。しかし、第二次直轄以降は、このような性格も大きく変わった。
それは第一に、内陸部の農業開発が始まり、〝面〟としてのひろがりをもってきたことである。それには二種のとりくみ方がみられた。一つは安政四年以降から開始された、ハッサム・ホシオキ・コトニなどの在住制である(第七章参照)。これには、荒井金助によるシノロ開墾も加わるが、これらはいわば封建制的な知行地としての開拓であった。他の一つは、慶応二年に設置されたイシカリ御手作場である(第八章参照)。この御手作場は、二宮金次郎(尊徳)の薫陶をうけた大友亀太郎が担当者となり、長期的な年次計画による尊徳仕法で行ったもので、幕府・箱館奉行による直接経営農場であった。御手作場は、間もなく幕府の崩壊により消失したが、責任者によって計画が立てられ、それにのっとって移民が招来され、その監督指導の下に、在住の開拓よりはるかに大きな成果がみられ、のちの札幌村に引き継がれたのである。
これと不可分の関係で推進されたのが道路の開設である。これまで、主として海路、内陸は河川によっていたサッポロの交通は、安政四年に日本海側と太平洋側とをむすんで、石狩低地帯を横断する道路がはじめて開かれ、陸上交通がこれを中心として展開されるようになり、その通路にそって、番屋・休泊所・渡船場などの施設が整備され始めた(第五章参照)。これにより内陸交通が容易になると同時に、札幌市域が交通上の要衝の位置をしめることになり、建府設置の下地が築かれることになったのである。