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詰役の更迭

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 安政三年も末になると、イシカリ詰となる在住たちも続々と箱館に到着し、イシカリの開発構想がうち出されていた。その矢先、イシカリ詰役たちの大幅な更迭と人事異動がもちあがる。『村垣淡路守公務日記』(以下、『公務日記』と略記)には、十二月二日に「場所詰品々云々有之ニ付、左之通場所替ニ評決致ス」と記され、イシカリ詰役のこともしるされている。それによると、イシカリ詰の調役並出役水野一郎右衛門はルルモッヘ(留萌)詰となり、ルルモッヘ詰の調役並須藤甚之助が、かわりにイシカリ詰に交替するように評決されていた。またここに、新たなイシカリ詰の足軽に肝付七之丞(きもつけしちのじょう)がみえる。七之丞は下役の吉沢左十郎のかわりとされている。左十郎はやはり、イシカリ詰足軽の左一郎の兄であった。ただし、左十郎がイシカリ詰であったとする他の史料はなく、また下役と足軽が交替するのも不自然な点があり、左十郎のイシカリ詰は疑問としておきたい。むしろ、左十郎は左一郎の誤りと思われる。一方、七之丞はこの評決通り、のちにイシカリに赴任している。
 このような人事異動が企図された理由は、ただ「品々云々有之」とだけしか記されていないので、明瞭な事実はとらえがたい。ここであげられている詰役の場所は、一郎右衛門のイシカリ、甚之助のルルモッヘをはじめとして、イワナイ・ソウヤ・シャリ・エトロフなどがあげられている。これは推測にわたるが、アイヌの「撫育」に対する場所請負人たちの怠慢、アイヌへの非道な取扱いに対して、各場所の詰役たちの不取締、請負人との癒着がみられていたからであろう。のちにみるように、イシカリ場所では請負人から詰役人への賄賂も横行していた。そのために、各場所の綱紀粛正をはかる目的で、この人事異動が企図されたと思われる。
 箱館奉行の堀利熙・村垣範正らは、蝦夷地開発・アイヌの「撫育」に関し強い意欲をもっており、詰役たちの不正・怠慢には、きびしい態度でのぞむことにしていた。たとえばこの年(安政三年)の三月二十九日には、「箱館調役下役以下無精者は、無役にいたし蝦夷在住申付、離島遣し候趣」(公務日記)と、「無精者」を在住に降格する「内規矩」を定めている。事実、一郎右衛門はこれにのっとり、後に在住におとされている。
 先の評決はこのように推しはかることができるのであるが、しかしなぜか実施されずに終わった。すでに須藤甚之助に対しても、堀利熙の名で、来春交代するよう十二月に申渡しもなされていたのである(蝦夷地御用留)。ただ、肝付七之丞だけは、イシカリ詰の足軽として赴任してきた。