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ハッサム巡検

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 一行は閏五月二十三日に銭箱に一泊し、翌二十四日はイシカリ直行組とハッサム巡検組の二手にわかれた。堀利熙、玉虫左太夫畠山万吉などは後者に属し、左太夫の『入北記』も、この年に開かれた新道、山岡精次郎等が入植していたハッサムの在住地のことなどを、詳しく記述している。巡検後、ハッサム・イシカリ川を下り、イシカリに到着する。二十五日は『入北記』によれば、「滞留見分ナシ。終日唯談俗而已」となっているが、『丁巳日誌』には、「此辺り在住の銘々の伺事等、またはエベツフトの漁猟場所等の事にてユウフツより鈴木(庄助)氏の出張有ける由……」と記され、利熙はイシカリ詰の役人などと政務上の協議をおこなっていたことがわかる。また『武四郎自伝』によると「魚見」を見学している。利熙の動向に関し『丁巳日誌』は、二十六日も「今日も何彼の事に附て御滞留あらせられ」とし、イシカリにて政務をみていた様子である。一方、玉虫左太夫、島義勇は武四郎の案内で、アイヌの細工・雇小屋を見学し、またサッポロの小使モニヲマ、上川惣乙名クウチンコレなどより、場所支配人イシカリ詰役人の非道な取扱いぶりの話を聞いている。左太夫はこれには怒りを覚えたらしく、さっそく聞書をまとめ利熙に提出している。利熙も「至極憐愍ノ情ヲ払ハレ、外ニ工夫(くふう)ヲ成サレント思召モ是アルヤニ見ヘタリ」と、『入北記』は記している。このこともあり、六月一日に支配人に対しきつい達(たっし)が発せられた。
 二十七日は再びハッサム在住の地所見分のためにイシカリを出発し、この日は銭箱に宿泊する。翌二十八日にハッサムに入り、再び地所見分した後、ハッサム川を下ってイシカリ川に出、そこから上流をさかのぼりツイシカリにて宿泊している。二十九日はまたイシカリ川を下ってイシカリに戻っている。