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村垣範正の廻浦

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 以上のイシカリ改革の発表がなされてから間もなく、村垣範正が廻浦でイシカリ入りをした。範正は、先の「書付」による申渡しの翌日、すなわち四月十四日に箱館を出立し、二十四日にユウフツへ到着する。この折、トマコマイ休所には荒井金助、飯田豊之助が出迎えていた。『公務日記』によると、二十五日条には「金助へイシカリ改革筋之儀、得(とく)と申談」とあり、また堀利熙・竹内保徳あてに、「イシカリ表(ママ)発後之様子等、くわしく金助談(はな)し之趣等、夫々申遣」とある。範正が金助ヘイシカリ改革発表後のイシカリの様子を種々たずね、その返答を両奉行に書き送っている。箱館奉行では、いかにイシカリ改革の反応を気にとめていたかがわかる。堀利熙の六月二日付の返書は七月十九日にカラフトのシラヌシで受け取っているが、利熙も「イシカリ之儀も案(ママ)心之由」と伝えてきていた。このようにみてくると、イシカリ改革の発表もイシカリでは平静にうけとめられ、予想したほどの動揺もみられなかったらしい。そもそも、荒井金助、飯田豊之助などのイシカリ詰役人が、ユウフツ・シラオイ場所の境界であるトマコマイまで出迎えるのも異例であったが、これもイシカリの様子を一刻も早く報告するためであったともみられ、箱館奉行たちもイシカリの反応は、相当に気にしていたのであった。
 村垣範正はこの後、二十七日に千歳川を下り、その夜はツイシカリの通行屋に宿泊し、翌二十八日にイシカリ・ハッサム川を経由して、ハッサムの在住を巡検する。この夜は在住の空宅で一泊し、二十九日はサッポロ越新道を検分しながら千歳へと戻っている。この時は直接にイシカリへはおもむかなかったが、東蝦夷地・カラフトの廻浦をおえ、八月五日に改めてイシカリ入りした。この五日は、ワッカオイ在住畠山万吉天野伝左衛門の畑地・役宅、五十嵐勝右衛門の漁場を検分し、六日はホシオキの在住サッポロ越新道をみ、この夜は銭箱に泊まり、翌七日はオタルナイ・タカシマへと向かっている。