イシカリ改革の発表後の動向について、若干ここでふれておこう。
ヨイチ場所請負人の竹屋(林家)長左衛門は、ちょうどこの発表の翌日の十四日にイシカリに来ており、荒井金助へ面会している。この頃、各場所請負人は鯡漁(にしんりょう)に建網の使用許可を請願しており、その陳情をかねるものであった。この日、長左衛門は昼の四ツ半(十一時)にイシカリに到着したが、金助は御用所に詰めており、夕の八ツ半(三時)に進物を届けた頃も帰宅していなかった。戻ったのはその後であるという。改革後の準備に、役人たちとの協議にあけくれていた様子の一端が、長左衛門の日記『ヨイチ御場所見廻り日記』よりうかがわれる。ところが、長左衛門はこの協議の真相がわからず、また金助も長左衛門と面談した折に、改革の件は一切口外しなかったらしい。長左衛門がこのことを知ったのは四日後の十八日であり、箱館からの飛脚を通じてであった。長左衛門は早速、この写しをカツナイの出張番屋にいた阿部屋の甚六に送っている。さらに二十日には、同じくカツナイに見舞にきていたという阿部屋伝治郎へ書状を遣している。この書状には、「御用所より何とか御尋も可有之筈と思案仕居」りとあり、すでに請負差免の風聞がたっていたことは知られるのであるが、発表自体は世間にもれないよう、秘密裡になされたことが推測できる。
改革発表後、五月に阿部屋伝治郎の請書が差し出され、勤番所等の建物の移管もおこなわれた。また、新たに漁場の割当て、改役所の帳役などの任命もなされたが、阿部屋から石狩役所へ正式に場所引継、直捌場所の公布がおこなわれたのは、『荒井金助事蹟材料』によれば六月二日であった。
また月日は不明であるが、この前後にオムシャを開き、改革の布達をアイヌへおこなったらしい。荒井金助の妻方の縁者、下宮(中村)精一郎の『荒井金助逸伝』には、盛大にオムシャをおこない、「在住諸士及部下各氏秘蔵セル甲冑・武器・馬具等ヲ陳列」し、賑恤(しんじゅつ)などもおこなわれたと述べられている。他に傍証史料がないので真偽は不明だが、場所支配の方式が変更となったので、このようなオムシャがおこなわれたとみてよいだろう。
『公務日記』によると、七月十九日条に、「石狩、荒井金助ヨリ改革筋之儀取計候趣、自書ニテ、書類相添申越候」とあり、これまでの時点で改革の諸政務が、ほぼ完了したことを思わせる。