イシカリ役所の調役は、フルビラからアツタまでの持場内の最高責任者でもあり、各場所の担当者を招集して、会議を開催するのも役目であった。この担当者会議は、すでに安政四年頃から開かれていた。
調役の重要な任務としては、「場所在勤心得方」にあるように、持場内の廻浦(巡回)があった。この時の様子を、ヨイチ場所を例にうかがってみよう。金助はヨイチ場所には、安政五年の場合、二月三十日に着き三月五日まで滞在した。その間、建網使用の陳情をうけ、アイヌへ借網の件、新道検分の指示など、諸般にわたる政務をとりおこなっている(ヨイチ御場所見廻り日記)。続いて翌六年は、城六郎と共に二月九日に、ヨイチに着いている。
覚
石狩持場内御廻浦ノ為
荒(ママ) 金助様
御上下三人
[二月九日夕より同十日朝迄]
一、御賄 六賄
此御代料百拾文
右之通御払被
石狩持場内御廻浦ノ為
荒(ママ) 金助様
御上下三人
[二月九日夕より同十日朝迄]
一、御賄 六賄
此御代料百拾文
右之通御払被
この林家の「御賄留」は、ヨイチの運上屋を利用した賄帳(まかないちょう)で、宿泊代・人夫・馬匹の利用料金が克明に記録されている。これによると金助は下臣二人をつれており、一泊六賄で一一〇文の賄代を支払っている。金助に続いて、城六郎の料金も同じく記されている。金助、六郎はこの後フルビラへ向かい、再び十一日にヨイチに戻り、またここで一泊している。この時の廻浦中、ヨイチでどのような政務がなされたのかは不明である。安政七年二月十二日も、「御持場御見廻」として金助は、上下六人と共にヨイチに着いている。このようにみてくると、この方面は毎年二月に巡回がなされていたようだ。
以上のような持場内の巡回は、各場所の実状を調査・監督するためになされたもので、奉行の廻浦と同性格のものであった。ただし、奉行の廻浦とは相違して、各場所の漁獲産高、アイヌの「撫育」状況などを帳簿に作製する作業はなされておらず、たぶんに形式的なものであったと思われる。
なお、御用所では、文久元年(一八六一)に「願受貸付其外共規則」が制定されている(北地内状留)。それによると調役は、帳場帳面の「調取」、定役は蔵鍵の管理、同心・足軽は蔵の出納の立会など、役務の分担が細かくなされていたことがわかる。