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幕末の役人たち

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 城六郎は文久二年(一八六二)の末に、箱館詰に転任となり、後任には小島源兵衛がなった。源兵衛は安政元年(一八五四)閏七月二十一日に調役下役となり、それ以降、箱館にて御蔵方・沖ノ口掛などを歴任し、文久三年一月二十日に調役並となり、イシカリ詰に任命された。源兵衛の在任は、元治元年(一八六四)十一月まで確認される。また六郎がクシュンナイ担当となり、後任のイシカリ改会所の担当に、梨本弥五郎が万延元年(一八六〇)三月に任命されていた。弥五郎は文久元年五月までの在任が確認される。
 金助の後任樋野恵助は、安政二年(一八五五)十月十七日に定役出役となり、三年一月二十八日にマシケ詰となる。永らくマシケ詰を勤めた後、七年三月二十三日に調役並出役、北地詰に任じられ、文久三年(一八六三)九月九日に調役並でイシカリ詰となった。源兵衛の転任以降は、イシカリ詰の調役は一人となり、恵助は明治以後、箱館裁判所の成立までイシカリ役所の首班をつとめることになる。
 定役では村田小一郎が、安政五年(一八五八)以降、慶応元年(一八六五)までの長期にわたり在任した。小一郎の後任には、息子の親太郎が「父明跡へ御抱入」となり、慶応元年十二月二十一日に定役となる(履歴明細短冊)。親太郎は、すでに万延元年(一八六〇)三月二十二日に、定役見習となっていた(市史二〇一頁)。慶応三年四月八日に箱館に戻っているが(日次記)、これは退任したためであろう。
 この他、当時の定役には、宇津野第次郎・中村兼太郎の両名がいた。第次郎は、慶応二年から四年までの在任が確認されるが、就任・退任の年月など正確なことは不明である。中村兼太郎は、安政五年(一八五八)一月に在住となった。もと清水附勘定並で、この年五月にイシカリ在住となって入地する。慶応二年頃に定役代にとりたてられたようで、明治元年(一八六八)八月十五日に元石狩在住定役代とあり、函館裁判所給事席に申し付けられている(箱館裁判所評決留)。