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北地調査の必要

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 アメリカロシア両艦隊の開国要求、そしてロシア兵のクシュンコタン占拠国境談判は、幕府に蝦夷地対応の緊要なことを悟らせた。目付でロシア応接掛の荒尾成允は嘉永六年(一八五三)十月「役々の内、掛り被仰渡、蝦夷嶋々の儀御取調相成候方に可有御座哉」(幕末外国関係文書 三)を老中に伺い出、大目付格西丸留守居筒井政憲、勘定奉行川路聖謨と荒尾が松前蝦夷地調査方針の検討にあたり、二つの分野で調査をすすめていくことになった。
 その一つは急迫する当面の課題に対処すべく、北地へ幕吏を派遣し実地に調査することである。翌年一月の江戸出発をめざし、勘定奉行石河政平、同松平近直、目付堀利熙等がその責任者の人選をすすめ、勘定方水野正太夫、徒目付河津三郎太郎平山謙二郎、小人目付吉岡元平等は、松前藩がどのように蝦夷地や千島カラフトに対処してきたかの取りまとめにあたり、松前藩に照会した。しかし江戸藩邸からの回答は、記録焼失を理由に粗略なものでしかなかったのである。
 この間、筒井から「北地検分ニ関スル措置」(維新史料綱要 一)が稟奏され、安政元年(一八五四)一月十四日賄頭村垣範正は勘定吟味役に昇格、海防掛を兼ねて「松前蝦夷地の御用被仰付、彼の地え被遣候儀も可有之候」(幕末外国関係文書附録 村垣淡路守範正公務日記、以下『公務日記』と略記)との発令をみた。村垣は早速勘定吟味方改役青山金左衛門、吟味方下役長谷川就作を推して松前蝦夷地御用取扱に任じ、上司である勘定奉行松平近直と相談し、勘定方のほかに目付グループによる調査団の派遣を促すことにしたらしく、堀利熙と内談を重ねて老中阿部正弘と協議のすえ、一月二十二日堀もまた村垣同様の任務を帯びることになった。ここに北地実査の調査団派遣の大筋が決定したのである。
 ペリーとの開国折衝の中、堀・村垣両グループの人選構成がすすめられ、在来記録の下調べ、船や食料の手配を急いだ。阿部老中は速やかな発足を指示し、二月八日両者に「松前蝦夷地え為御用被差遣候条、用意可致旨」(公務日記)が命じられた。