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嶋田熊次郎

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 目付グループの長を勤めた堀利熙の手になる紀行記録は見出せない。彼の側近では用人久住九兵衛が『東西蝦夷地日記』を書いたが、残念ながらイシカリの部分の所在がわからない。もう一人嶋田熊次郎がいる。『蝦夷紀行』(後出)は彼を堀の「御給人」とし、依田治郎助『道中諸用記』は、「御用人格御給人」と書いているから、堀家につかえる人らしく、なかなか文才に富み、霞城と号した。文中自分を兵吉といい、緯度を測定しているから、そうした素養の持ち主であったかと思われる。
 彼の旅行記を『天辺飛鴻』といい、『松前音信』(国公文)『甲寅北地巡覧記』(同)『松前箱館出張堀織部正様臣嶋田熊次郎より書信写』(道図)等の名でも伝えられている。数通にわけた書簡の形をとっているが、紀行文として一本にまとめることを念頭に書きつがれた。文中で筆者は主人を公とか若殿とか吾曹と呼び、その動静を子を案じる父(老大公)に知らせようとしている。公は利熙をさすから老大公は大目付堀伊豆守利堅だろう。しかし実際の送信先は老大公にとどまらず、北海道立図書館本は牛久保、筑井、須藤、堀江の四人に宛てており、その一人牛久保貞固の子孫がまとめたものである。
 内容は道中目にした自然の風景、交通の便否が主で、主観的な論評は少ない。蝦夷地の風物をまだ見ぬ人に知らせようとする意図がうかがわれ、調査記録というよりは文学作品として扱うべきだろうか。だから主君の公私の言動には深入りしていない。外圧による物情騒然たる問題は別便にしたようで、『松前音信』巻末の書状にその一端がうかがえる。書名は大空のかなた──江戸から遠い地へ大役を担って旅する主君をオオトリに喩え、書簡ごとに題を付けたが、カラフトを天辺と呼んだので、書簡をまとめたものをもこう名付けたらしい。
 筆者は安政元年五月二十日フルビラから海路イシカリに来て一泊した。その後、カラフトからもどって箱館へ向かう途中、ムカワからユウフツの間で「此辺より西地イシカリ迄曠野一面に押続き、タルマイ山より北え掛けては、山も遠くなり、四方茫々たる野草のみ」と説明。八月十三日はユウフツ会所に泊り、翌日シラオイに向かうが、「ユウブツ会所の西角より野中を北え岐路在。是をユウブツ越とて、イシカリ川に向ふ也。松前箱館より西地え出る定路也」と述べ、イシカリ─ユウフツ間の交通路に注目した。
 この紀行書簡から嶋田の見たイシカリをうかがうと、①石狩川の大きさと流木の多さ、②石狩平野の広さ、③勤番所の存在、に注目した。①から鮭漁に話題が及ぶことは多いが、嶋田にはそれがみられない。来訪季節が春のおわりで、アイヌの多くは鰊場に出向き、イシカリの浜はものさびしい光景だったろうから、秋の賑いに思いがいたらなかったかも知れない。対照的なのはイシカリを立ったその日の宿となるマシケの繁栄ぶりである。一行の船が浜に近づくと「二八取集り居て、娯がてら睡さましに数多舟を推来り、縄を打掛く。吾負けじと牽き去り行く。大舟小舟入交り、大旗小旗色を分け、各自に舟歌打唱て、海上の雑還、客中の一盛事たり。是蜃気ならずして宛然たる海市を成す」と嶋田は驚きの目をみはった。鰊漁のあと、〆粕の荷づくり、船積み作業で活気づく様子がしのばれ、前日とあまりの違いから、イシカリの漁業への関心が薄らいだとさえ思われる。
 ②平野の広さに驚いているが、ここを農耕地に変えられるとは考えなかったようだ。嶋田はユウフツで「兔角、平原曠野に遇へは、荒田廃宅同様に一概に百数(数百か)万の賦税を期す」ことの誤りを論じ、地味の厚薄、寒温の監桉ばかりでなく、漁業の易になじんだ人心の壁を問うている。石狩平野の広さに驚きはしても、これを富源とはかならずしも見なさなかった。③勤番所に関心を示したのは本調査の主要目的からして当然のことであろう。
 そうじて嶋田はイシカリであまり強い印象を持たなかったらしい。『松前音信』等はイシカリの項をほとんどカットし、「廿日、石狩に宿す。イシカリ河は西地第一の大川なり」という一行を残すだけで、この抄録が嶋田の手によるとすれば、主要な関心事はイシカリになかったといわざるをえない。