ビューア該当ページ

夷境の一都会

676 ~ 677 / 1039ページ
 この調査で残された記録に窪田の手になる『協和私役』がある。一名蝦夷地見置書上(北大図)、後方羊蹄日誌(道図)、蝦夷紀行(成田山仏教図書館)ともいい、表面的な紀行文にとどまらず、現実を深く洞察し今後の対応を論じた名著である。著者は貞治、子蔵、久徴、野軒とも呼び、藩の重臣平野重美の子、兄弟みな文士として名高い。次男だったから窪田家の養子になり、江戸に出て昌平校に学び、また朝川善庵の塾に入り、伊勢国津に斎藤拙堂を訪うなど各地を遊歴、藩黌温故堂の附教となり経史を講じた。しかし時務を論じ執政有司を誹謗し周囲の諫を聞かず、厳責を受けること数度に及んだ。才ある学者を優遇する藩主の意向で許されて蝦夷地調査の主任となり、この命に大望を託したのだが、一次調査のあと非を責められ、翌年のメンバーからは除外、「その行を止めらる。かくてます/\志を得ず」(文明公記 拾六)、失意のうちに安政六年四〇歳で没した。彼の記事によく符合する絵図が北海道大学附属図書館にある。『西蝦夷図巻』と題され、もし一行にかかわるものならばイシカリの図(写真1)は黒沼隆三の筆だろうか。

この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、
著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。
 
写真-1 石狩真景 西蝦夷 北海道大学附属図書館蔵

 これらの史料によると、一行がイシカリに向け千歳の宿を出立するのは七月六日、丸木舟で千歳川を下りイシカリ川に出て、この日はツイシカリに泊まる。翌七日は雨の中イシカリ川を下って浜に着き、一泊して翌八日にアツタへ向け出立する。イシカリ滞在の日はたまたま七夕で、蝦夷地に広まりつつある日本の風習を『協和私役』や「石狩真景」図はよく伝え、佐治もよほど印象深かったとみえ「七月七日は石狩川ニ罷在候」(佐倉市史 二)と郷里に報じた。
 窪田はイシカリでアイヌの歌舞に感動する。蝦夷地に足を入れた当初「土地異なれば人心も異るにや」(協和私役)とアイヌ文化にとまどうが、旅するうちに深い理解を示すようになり、イシカリ庭中鶴の巣籠りの舞や酒を酌交す作法に心服し、箱館奉行所がすすめつつある拙速なアイヌの和風化に疑義をなげかけた。またイシカリ平原の開拓に関心をよせ〝天造の水田〟とみなし、農業開拓の必要を説き、モウライのカド石をガラス原料とするよう提案、同行の林弥六はイシカリ林材の伐出を上申するなど、殖産へ鋭い目をそそいだ。
 一行は、イシカリのアイヌが〝松前を見たければイシカリを見よ〟と言うのを聞き、荒涼たる夷境の一都会を慨歎したが、夕食の盛膳に「平生いまだ此に当り得ず」と驚くほどの厚いもてなしを受けた。けれども、蝦夷地開拓の障害として窪田が強く指摘した、場所請負人ら〝奸商の術計〟をイシカリの美酒にあじわいとらなかったらしい。