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写真-1 石狩真景 西蝦夷 北海道大学附属図書館蔵 |
これらの史料によると、一行がイシカリに向け千歳の宿を出立するのは七月六日、丸木舟で千歳川を下りイシカリ川に出て、この日はツイシカリに泊まる。翌七日は雨の中イシカリ川を下って浜に着き、一泊して翌八日にアツタへ向け出立する。イシカリ滞在の日はたまたま七夕で、蝦夷地に広まりつつある日本の風習を『協和私役』や「石狩真景」図はよく伝え、佐治もよほど印象深かったとみえ「七月七日は石狩川ニ罷在候」(佐倉市史 二)と郷里に報じた。
窪田はイシカリでアイヌの歌舞に感動する。蝦夷地に足を入れた当初「土地異なれば人心も異るにや」(協和私役)とアイヌ文化にとまどうが、旅するうちに深い理解を示すようになり、イシカリ庭中鶴の巣籠りの舞や酒を酌交す作法に心服し、箱館奉行所がすすめつつある拙速なアイヌの和風化に疑義をなげかけた。またイシカリ平原の開拓に関心をよせ〝天造の水田〟とみなし、農業開拓の必要を説き、モウライのカド石をガラス原料とするよう提案、同行の林弥六はイシカリ林材の伐出を上申するなど、殖産へ鋭い目をそそいだ。
一行は、イシカリのアイヌが〝松前を見たければイシカリを見よ〟と言うのを聞き、荒涼たる夷境の一都会を慨歎したが、夕食の盛膳に「平生いまだ此に当り得ず」と驚くほどの厚いもてなしを受けた。けれども、蝦夷地開拓の障害として窪田が強く指摘した、場所請負人ら〝奸商の術計〟をイシカリの美酒にあじわいとらなかったらしい。