写真-3 阿部屋の場所請負罷免の請書写
(滋賀県立短期大学蔵西川家文書の内)
蝦夷地を直轄し、箱館奉行所の新政策が具体的に各場所に下されるのは安政三年春からである。そこでは場所請負制を否定することなく、漁業中心の経営に新たな殖産事業を加えていこうとした。ところが一年たってみるとイシカリで「開墾開坑等申事は、箱館にては不流行」(燼心餘赤)という噂が流れ、西蝦夷各地では開墾した畑地へ播種を控える者もいた。この噂の流布とイシカリ詰幕吏の更迭がかかわりあるかも知れない。さらに阿部屋は、どうせ三、四年もたてば幕府直轄は中止になり、イシカリの地はまた松前藩の支配に戻るから、奉行所の言に耳をかさぬようアイヌを説得していた。「今度の御所置を蔑放し、眼前の私欲を逞疾すること、悪むに余り有る」(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)と立腹したのは松浦武四郎ばかりでない。奉行をして流弊取直しを命じ(幕末外国関係文書 一六 第一二二文書)、阿部屋罷免の決断をさせる要因になったと思われる。
以上が『書付』で述べられている改革の要因と、その内容と考えられるものであるが、これだけでは請負制廃止というイシカリ改革の説明には不充分であろう。カラフト対策を含めたより広い視野から、イシカリの位置づけを見なおさなければならない。