大津浜は茨城県の最北部に位置する北茨城市に属し、太平洋に面して現今も漁港をもって栄えている。周囲は棚倉藩領や天領旗本知行地が入り組み、複雑な支配変遷を経る中、大津浜だけは元和八年(一六二二)以降ひきつづき水戸藩領として明治にいたった。藩域の最北端であったことは勿論だが、ごく狭い飛地で、藩の附家老(徳川譜代の家臣並に扱われ、水戸藩主に付けられた)中山氏の知行地だった(一時、別政別高を称したことがある)。『図説北茨城市史』によると、近世の大津は漁をもって第一の業とし、かつお、いわし、ぶり、さめ、あじ等をとって江戸にまで売り出し、浜は人家が軒を連ね、水戸藩の一小都会とうたわれたという。
写真-4 現今の大津浜(北茨城市教育委員会提供)
グループの性格や個々の素姓はほとんどわからない。ただ、天保年間水戸藩と松前藩の場所貸借掛合の関係者とかかわりがありそうで、「勝右衛門がいかなる経歴の人物であるかが問題となるのだが、今のところその辺は不明である。ただ、天保十四年の『松前御用留』の鈴木平七が同じ大津の人であること、同史料中に『飛脚勝右衛門を以て云々』とあるのによれば、おそらく五十嵐勝右衛門と同一人物と見るべく、鈴木平七および水戸藩の蝦夷地場所借受一件とも無縁ではないだろう」(佐藤次男 那珂湊市史料 三 解説)といわれる。すると、大津浜グループの蝦夷地進出計画は早くから進み、徳川斉昭の隠居謹慎により一時中断するが、嘉永六年からの幕政参与と阿部―堀田政権の積極的な蝦夷地政策に乗じ、再び計画を推進しはじめたのだろう。
彼らの主張は水戸藩領に蝦夷地産の魚肥を移入し、農村の発展を促し藩の利益を高めることにある。これが表向きの理由にしろ、そのために自分たちを蝦夷地の場所請負人にとり立てるよう水戸藩から幕閣に働きかけてもらいたいとする、彼らの願いを藩として担当したのは勘定所勝手方の中村三五右衛門と青木雄五郎で、中村は斉昭の擁立運動に加わり、のち元治の禍中に没した人。二人の上司勘定奉行原十左衛門は天保十四年松前に来て場所貸借の掛合をした当人だから、大津浜グループの主張は藩の一方の意見を代弁していると考えてよい。
水戸藩は江戸邸が窓口になり、在府の箱館奉行やその下僚と折衝をつづけた。安政四年、エトモ、ホロベツ両場所請負人井筒屋久右衛門が差免されたので(公務日記 安政四年三月二十七日条)、ここはどうかと話題になったらしい。そこで早速代表格の勝右衛門は添状を持って箱館へ行き願い出たが、すでに後任は恵比寿屋半兵衛ときまっていた。この時箱館滞在の奉行は村垣で、江戸における水戸藩の動きを知っていたはずだが(公務日記 安政四年七月二日条)、井筒屋差免の時点で後任を予定しており、井筒屋以前も両場所は恵比寿屋の請負で、新たに勝右衛門のささり込む余地などない状態だった。
箱館奉行所では組頭力石勝之助が勝右衛門に会い、エトモ、ホロベツ場所請負を希望するのなら、直接恵比寿屋に交渉してはどうかと言う。そこで彼は福山へ行き「実意を以、相談申入候所、一切取合不申」(五十嵐勝右衛門文書の内 東行御用留)ありさま。しかたなく箱館にもどって、交渉の始末書を奉行所に出すと、組頭奥村季五郎は、内々だが明春請負人の入れ替えをするつもりなので、その節は考慮してもよいと耳うちし、これが市中の風聞となれば大騒ぎになるから口外せぬよう固く口止めした。さらに、明春まで箱館に留まるのなら借家を世話するから、役宅で雑務を勤めるようにとのこと。この話が安政四年十月二十日で、勝右衛門は水戸へ帰ることもできず、結局箱館で冬をすごした。翌年二月、内々のこととして御用の筋を伝えられ(市史九二頁)、その公表が四月十三日の発令だったのである。