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漁間農業の育成

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 イシカリ役所は改革を機に出稼奨励と表裏をなす生産活動の振興に力をそそぎ、〝無商売の者〟がいないよう、浜名主は就業出精に気くばりするよう命じた。基幹産業ともいうべき漁業については第三節でまとめて述べるので、ここでは外の生産活動への配慮について見ておくことにする。
 新施策の第一はイシカリへの農耕技術の導入である。各種調査は必ずしもこの平原を農作適地と判断していないが、安政元年堀・村垣報文はいち早く導入方針を明示し、改革前年にあらためて「漁業間隙を見計、請負人共始、小前、土人一同、新田畑地開方」(ルヽモツヘソウヤヨリ到来御用状 上)を確認する。すなわち、漁業を基幹にすえ、その余力を活用して田畑の開墾耕作を勧めた。この時、イシカリには「畑作物は一切なし」(永田方正 荒井金助事蹟材料)と伝えられる。改革にともない場所請負人の障害がとりのぞかれると、住人に「永住致候者は、田畑開発いたし、何品たりとも産物取開、差出可申」(市史五八頁)ことが触れ出され、漁間農業の育成がはかられた。
 この結果、出稼漁業者、商人、雑業者、アイヌの住居の周辺に自家賄い用の菜園が急増した。網持出稼人は使用人の食糧を補うため畑作の必要にせまられ、浜名主勝右衛門は農民をってポンライネに畑を開き、マクンベツに引場を持ち渡し舟を業とした利右衛門本陣裏手に耕地の割渡しを受けた。これらは自家賄い用の畑作ではあるが、その中から漁業にかかわりながらも農事に多くの労力をそそぐ兼業農家が生まれた。イシカリ人口の増加を背景に、彦四郎や五郎兵衛のように野菜を中心に畑作物の生産に意をもちい、収穫物の売却を生活の糧とする者が現われ、(早山)清太郎のように漁場雇人として来たのち農事専業に転ずる者、さらに、豊吉や長八のように最初から農業を目的として移住を出願する者も現われた。