安政三年七月、箱館奉行所は伐木制限を打ち出し、イシカリ役所の許可なしに木を切るのを禁じた。改革により、この方針をさらに強化、あわせて止山の制を施いた。すなわち、サッポロ等六カ所で榀(しな)を、またサッポロ等四カ所で椛(白樺)を、さらに桑、朴(ほう)、槐(えんじゅ)、水松(おんこ)の伐木を全域で禁じ(アイヌをのぞく)、万延元年対象地域と樹種を広げた。伐木統制とともに苗木の移植をはかり、野火注意を呼びかけるなど、水源涵養、アイヌ授産、将来の殖産に備えたのである。
写真-6 イシカリの木材利用を提言した上申書と、
その筆者林弥六(佐倉藩士)の署名
イシカリ場所の住人で木材を必要とする時は、役所に願い出て鑑札を受け、伐木後に役銭を納めた。許される用途は、住居や蔵の建築と造船や船道具の製作が主で、燃料用の炭や薪としての需要も多く、船囲い資材、網引場の建物、川普請、架橋等である。万延元年の大火を機にイシカリの町内では建物の草葺を認めず、柾屋根、板、土壁を奨励し、そのための伐木が多くなった。産出地は星置から手稲、発寒にかけての山中で、マクンベツ、トウヤウシ、ヤウスバ、シップ、ホロムイ等でも伐り出した。大量の伐採はイシカリ役所の権限外で、箱館に伺うこととされたが、そうした願い出はなかったようで、むしろ特殊な材質や多量の木材は、もっぱら移入に頼ったのである。
めずらしい産物として紫根がある。荒井金助は袴のすそに鹿皮をぬいつけ、自ら紫根で染めて常用したと伝えられるが、佐渡から来てハッサムに永住した第次郎は〝紫根掘渡世〟を自称した。おそらく野生種を集めたのだろうが、これだけで生計を立てえたとは思えない。ただ、採集物は箱館の産物会所が全て買い上げたので、確実な現金収入源ではあったが、自由な売買は許されなかった。