安政六年(一八五九)の人別帳は、田中家資料にあり、全部で一〇紙、二七軒九七人分しか残っていない断片である。年次の判定は、記載された人別の年齢が、いずれも安政三年の人別帳より三歳多いことにより、安政六年と特定できる。主にユウバリ・シノロの部分である。書式をみると、乙名・小使の上欄にユウバリ(上・下)、シノロなどの場所名の記載がなく、また場所ごとの集計もみられない。さらに、接合関係の不明な断簡に、ハッサムと中川の表記がみられる。中川は次の慶応元年の人別帳にもみられるように、イシカリ場所の場所名ではなく、イシカリ役所及び改会所の出張所の役割をもつ番所が所在した地域名である。このことは、安政五年のイシカリ改革により場所が廃止となるにともない、人別帳の作成様式はこれまでの場所ごとではなく、番所の管轄区域ごとにまとめられたと推測できる。