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アイヌへの種痘

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 なおイシカリ場所では、文化十四年(一八一七)から翌文政元年にかけ疱瘡が大流行し、多数のアイヌが死亡した。また安政二年(一八五五)から四年にかけても、西蝦夷地を中心に疱瘡の流行をみた。このため、種痘の実施が必要となっていた。
 箱館奉行では、安政四年に蝦夷地へ医師を派遣し、種痘を実施した。イシカリでは七月五日に、桑田立斉の弟子にあたる西村文石種痘をおこなった(簡約松浦武四郎自伝)。武四郎は、「種痘の御世話有らさせられけるぞ、実に如実ことまでと感涙を催し保(はべ)りける」と、喜びを記している(丁巳日誌)。
 イシカリには、また松前藩勤番所と同様に医師がおかれていた。しかし医師は、和人の治療にあたるのみで、アイヌへの施療はみられなかった。この点においても、アイヌへの「撫育」政策は不備なものであった。