ハッサムは安政三年
人別帳には、五軒二一人とあるが、実際には四軒であった。すなわち、(1)
乙名コモンタ、(2)
小使リカンクル、(3)
土産取イワウクテ、(4)ハシユイカニの四軒であった。(2)はマシケ、(4)はイチヤンの出身で五、六年前より病気で
雇にも行けず難渋していた。(3)は
土産取といっても、わずか八歳の子供で、弟に五歳のイサンケアレがいた。この兄弟は、
支配人円吉とイヌイシヤヌの子で、母はすでに死亡していた。円吉はこの兄弟をかわいがり、たまにハッサムに来ては添い寝をし、着物・食物も
和人同様にしていた。
土産取にしたのも、円吉のはからいであったろう。円吉はその後、モンベツ場所に移り慶応二年に『
蝦夷記』をあらわしている。この幼い二人の面倒は、アイトンケとバロイレキがみたが、バロイレキは糸巻が上手なために浜へ下げられた。アイトンケは、
モニヲマの義兄アイクシケのことである。安政三年の
人別帳では、シノロに編入されている。イワウクテは周囲の人々の世話をうけ、その後無事に成長をとげ、慶応元年
人別帳には
小使となっている。イワウクテの家族の
人別帳をみると、次のとおりである(①安政三年、②慶応元年)。
① | イワウクテ (8) | ② | イソウクテ (17) |
弟イサンケアレ (5) | 祖母ウナカレ (60) |
僕シユツタ(フヌ) (38) | 伯母ヲミンタカレ (35) |
女ヲシンタカレ (25) | 悴タミチヨ(改名エンキヒ) (8) |
①の僕シユツタはすでに死亡しており、女ヲシンタカレは
番人の妾とされ、帰宅も許されていなかった。その後、
番人が
アイヌ女性を妾とすることが禁止されたので、タミチヨを連れて戻ったのであろう。