コモンタは、ここの出身で小使・乙名を歴任したハッサムの名家であった。安政元年(一八五四)に小使とみえるのが初見で(蝦夷誌)、四年に乙名となったらしい。
コモンタの家族は、安政三年(①)、慶応元年(②)の人別帳でみると、以下のとおりである。
①では娘ハツチヤレがおり、当時、浜へ雇に行っていた。②ではみえず、結婚のため他出したのであろう。また①の妻ムンラフ(ムツラツフ)は、もとハッサムにいたトツカマの娘であったが、間もなく死亡したとみえ、②では妻がイヌニシとなっている。彼女はトクビタのハシユエトの母で、ここの出身であった。当時二人は家がなく、惣乙名サヒテアイノのもとに同居していた。安政四年七月五日に、武四郎はイシカリでコモンタに会う。その折、コモンタは泣きながら、以下のことを武四郎に訴えている。コモンタがイワウクテ兄弟を、円吉の子供であると在住たちに話し、またハッサム川普請の折に、円吉のもとに見舞いにこないと怒って、コモンタは雇蔵に押込められてしまった。このことを武四郎は聞き気の毒に思い、ハッサム在住の件につきコモンタは尽力したので、当時イシカリ兼務の調役並長谷川儀三郎に願い、コモンタをハッサム取締役に任命してもらっている。
武四郎は安政五年六月十八日に、サッポロ越新道を調査した折に、昼飯に立ち寄っている。コモンタの家はホンハッサムと呼ばれた、発寒川(現在の発寒・琴似川)中流域の左岸にあった。『戊午日誌』には、五軒のアイヌの家があったという。コモンタも安政四年閏五月二十四日に、箱館奉行堀利熙の一行がハッサムを視察にきた時に、長谷川儀三郎をのせ発寒川を下っている。