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農民の招募

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 これまで繰り返し述べてきたように、在住制は、在住みずからが開拓を行うのが本旨ではなく、在住の招募した農民が土地を開き、作物を育て、やがては在住に年貢を納める、というのが骨子であった。したがって、札幌の歴史にとって在住制で最も重要なのは、招募され、開拓労働に従事し、やがて村落を形成していった農民たちであるが、しかし当時の関係文書等は非常に少ない。このため、農民招募についても若干の事例を挙げるに止めざるを得ない。また個々の農民等については、第九章で記述する。
 農民招募で最もよく知られているのは、永田久蔵に関するものであるが、これは永田の引き連れた農民についてなんらかの問題が生じたため、『公務日記』に記載されたからである。まず安政四年五月十五日の項に「永田久蔵面会、見込様子……等承ル、農夫十壱人召連来ル由」とあり、同二十日には「永田久蔵之儀、(堀)織部へも相談、御入用之積り、地方掛りに示談致ス」と記され、さらに二十二日には「永田久蔵拝借等願出し候へとも、難相成筋ニ付、召連候農夫は、御入用之積りニテ、石狩エ早々召連出立いたし候様、右之内三人(中島)辰三郎へ托し残し置候様、附札廻し済」となっている。これだけではよくわからないが、永田が拝借等を願い出て、これが却下されたことは明らかである。あるいは、永田は八石二人扶持という身分で一一人の農民を扶養できるのか、という問題が関わっているのかもしれない。
 また、後年の記述になるが、山岡精次郎について「安政四年の頃旧幕臣山岡某が此地を移して十余戸の民を移し」(札幌新聞第六号 明治十三年七月二十一日付)たとされており、『開拓使事業報告 勧農』には発寒村に関して「安政四年山岡某ニ命シ属吏四五名ヲ率ヒ跋渉開墾ニ着手シ農夫ヲ募リ扶助ヲ給シ」とあるが、山岡はハッサムの中心的人物であったから、大要はほぼこのようであったと思われる。
 次に、安政四年ハッサムに入地した秋山鉄三郎は、万延元年十二月にイシカリ役所に対し、農民の飯米に差し支えるため、兄で北蝦夷地在住の秋山吉郎(繁太郎)の扶持を、イシカリで受け取りたい旨願い出たが、それに対してイシカリ役所は「同人石狩開墾地エ召抱候農夫追々相増、飯米之差支候趣ニて、事実無余義次第ニ相聞」(白主御用所 御用留 万延二辛酉年)と上申して、箱館奉行もこれを許可した。これは、まず入地した在住が、状況をみて次弟に農夫を増加していった事例といえる。またこの場合、おそらく最初は、兄で旧来からの幕臣である秋山繁太郎(吉郎、高一五〇俵)が主となり、鉄三郎がこれを助けていたものと思われる。兄が去ったあとは、鉄三郎のみの経済力では当然維持はむずかしかったと思われるが、にもかかわらず、さらに農民を招募し続けたようである。
 さらにまた、ヨイチ林家の『安政六[己未]年 ヨイチ御場所見廻リ日記』(余市町史編集室編)には、同年四月二十五日の項に「(畠山)万吉様御家内御引越……彼是御家内十人、外農夫十人程のよし」とあって、農民一〇人ほどを引き連れている。畠山の在住発令は、安政五年三月であり、さらに同史料では青森から箱館に渡ったことが記されているから、入地一年後に家族と農民を伴って本格的な入地をしたと思われる。
 このほかハリウスでは、文久二年に「百姓家七八軒あり」(今井宣徳 蝦夷客中日記)と記されており、ハリウス在住葛山幸三郎一人であるから、これは葛山の招募農民であろう。
 以上は農民招募に関する事例であるが、少ない例ながら、相当数の農民が在住によって招募されたことが推察できよう。ただし明治以降の開拓の歴史が示すように、招募した農民の定着は必ずしも良好ではなく、移動はかなり多かったと思われるし、後年の聞取り等でも、招募農民が開拓に専念したとはいえない。在住自体すら移動が少なくなかったから、それの招募した農民の定着率が低いのは当然であろう。

写真-3 天野伝左衛門の墓
(石狩町 金龍寺境内)