以上の結果として、ハッサム在住地に農民が入地し、やがてハッサム村が成立することとなるが、今のところ成立の時期、村役人等についてほとんど知るところがない。ただ後年開拓大主典として、開拓判官島義勇の部下であった十文字龍助の文書『御金遣払帖』明治三年(一八七〇)二月十三日の項に「発三村百姓代源吉」云々の文言がみられ、この時期に笹布源吉が村役人の一人であったことが知れるが、名主等については有無を含めて不明である。
ハッサム村の位置については主として次項でのべるが、おおよそでいえば、現在のJR函館本線発寒中央駅付近から発寒川岸対岸の多少上流までを上とし、川の下流おおよそ一キロメートル程度となろう。この地帯は、ほぼ発寒川扇状地の末端にあたり、泥炭地層との境界付近と思われる。当時の紀行類はみな土地が肥えて農耕に適していると記しており、おそらく集落からさらに下流方面は、泥炭地が多かったと思われる。
また扇状地の末端ということは、川の流れがゆるやかとなり、水運が比較的容易に行われる地点でもある。箱館奉行のいう適地とは、こうした両面の条件を備えていることを指しているのであろう。