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産業

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 農業については一部すでに第七章で述べたように、文久二年(一八六二)に山岡が水稲を試作したが、成功はしなかった。畑作の方は麦、大・小豆、えんどう豆、ツク芋(つくねいも)、茄子、ごぼう、にんじん、葉菜類などが栽培され、イシカリなどへも売り出された。畑作物は気候的にこの地で充分生育するものばかりではあるが、往々水害を受けたようである。
 もちろん農業だけで住民の生活は成立し得ないから、彼らは他の産業にも従事した。中でも漁業(鮭漁)については、官もそれを認めており、村山家資料中の「石狩場所改革方取計之儀申上候書附」のうちに、
 在住召遣農夫為助成鍵取漁差免候ニ付、サツホロ川エ番所壱ケ所足軽附限、其余出稼人漁場ハツサフ、ツイシカリ、ヒトヰ、トウヤウシ四ケ所番所取立、同心足軽之内壱人宛詰切、最寄漁場取締致し候事。

とあって、招募農民には鍵取漁(マレップ)が許されていた。
 また、河野常吉資料中の『石狩場所請負人村山家記録』中に、在住畠山万吉(安政五年発令、ワッカオイ)から「此度在住仕候上はイシカリ川之内御差支無之所ニテ召連候手人数ヲ以魚漁等も」行いたい旨願い出て、許されている。これ以外にも、現場に出稼に行った者も少なくなかったと思われる。
 さらに、イシカリその他で必要な木材は、ハッサム川上流でも伐採されたので、伐木労働にも従事したと思われる。
 このほか大友文書中には、慶応二年秋に熊吉(鈴木)が借船賃弐分の、また源吉(笹布)が川船二艘代金として一五両の支払いを大友から受けており、ハッサム川の運輸等のため、自分の舟を持っていた農民のあったことが知られる。在住等から扶助を得ているとはいえ、開拓・農業以外の多くの仕事にも従事することによって、農民の生活はかろうじて維持できたといえる。