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城六郎開墾地

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 ところで、荒井村がどのような状況下で、どのような目的で設置されたのかを示す当時の史料は見出していない。しかし参考になるものとして、荒井金助の部下で、北蝦夷地クシュンナイ勤番所の責任者でもあった城六郎のイシカリの開墾地に関し、村山家資料北地内状留』に次の記述がある。
 まず文久元年(一八六一)五月八日付、クシュンナイの城より荒井・梨本弥五郎あての文書中に、
 小生開墾地農夫とも、是又御心附出精相開候様ニ願上候。(荒井)好太郎様其外御家来御見廻之節ハ、同様御見分御手農夫とも且ハ御世話之程ニ願上候。若不相応之義御座候ハバ、早々永之暇御遣し可被下候。

とあり、これに対して同月晦日、荒井・梨本から城あてにはこれに関し、
 御開墾地金助廿一日より廿五日迨所々見分仕候所、至テ出精ニテ熊蔵杜大両人の場所共千坪余出来仕候。根切虫多ニハ困入ニして、併杜大夫(ママ)倅ハ極出精之者ニテ、御安心御座候。熊蔵ハ少々から骨病(カラホネヤミ―怠け者)と相見申候間、杜大を御賞之方と奉存、熊蔵も両人張合ニ相成候間、少しはましに相成可申と奉存候。

と記している。
 これでまず明らかなのは、城が自分の開墾地を持っており、これが公認されていた、ということである。農民二戸、墾成面積がこの時点で二〇〇〇坪余に達していた。同史料によれば、城個人の支出内訳中、農家二戸の手当米代として一六両(一六俵分)が記されているから、まさしく城個人の開墾地である。この点は、荒井村荒井金助個人の費用によって設置されたと伝えられているのと同様で、これからいえば、荒井村は荒井の「小生開墾地」ということになる。
 また「見廻之節ハ、同様御見分」という文言、荒井らが開墾地の実状と対応策にまでふれている点、それに荒井・梨本連名の他の案件もいくつか含む公文中に記されていることなどを考えると、城開墾地について、官が強い留意を払いつつその成功を期待していると考えられ、この点は荒井村も同様であろう。金助の弟荒井蘭台をチーフとするモーライ開墾も、同じ性格のものであろう。なお、城開墾地の場所については、まったく手掛かりを得ることができなかった。
 このほか、前節に記したように、足軽亀谷丑太郎も、ハッサム村(のちに手稲村となる地)に開墾地を持っていたといわれる。