サッポロ村という呼称は維新変革以前には見られないが、これはイシカリ御手作場を母胎として維新後に成立する村である。当時はもっぱら大友亀太郎扱いのイシカリ(石狩)御手作場もしくは開墾場と称せられていた。このイシカリ御手作場はすでに前章で述べられているように、慶応二年(一八六六)箱館奉行所の強い意向のもとに、その差配をすべて大友亀太郎に委任して発足したものであった。大友は慶応二年の四月二十七日にハッサムに入り、そこの番所に宿泊して、二十九日よりいよいよ設立すべき御手作場の地所の選定にとりかかった。この時案内したのは早山清太郎であったという。
ところでイシカリよりややさかのぼると石狩川は右に大きく湾曲していたが、その深奥部の右手の岸に相前後してバラトプトついでサッポロプトの地があった。バラトプトにはハッサム川が、サッポロプトにはフシコサッポロ川、シノロ川やコトニ川などが合流して注いでいた。これらの石狩川支流の流域は平坦で多く肥沃の地であった。すでに安政期から在住たちが入植し、それらが招募した農民たちによって開発が進められ、ハッサム村やシノロ村あるいはコトニ開墾場が形成されつつあったことは前節で述べられている。このような状況の中から、先に下流地域においてはシノロ村が生成していたが、そこからさらにフシコサッポロ川の上流の左岸地域を大友はイシカリ御手作場の地と選定したのであった。彼自身「石狩国原野ヲ実検スルニ、最良ノ原野ハ札幌ナリ」とし、「且此地ノ成跡ヲ視ルニ、南北蝦夷地へ只一小線ノ通路アルノミ、其他開闢以来未タ人足ノ通セサル処ニシテ草木繁茂シ」(大友亀太郎履歴書綴 大友文書)と記している。
そして即刻箱館より連れ来たった黒鍬を配下として、またおそらくイシカリ辺よりの多くの人足を徴集して、用排水路、土手、道路、橋梁、家作等の開墾場の造成工事にとりかかったのである。これには突貫工事をもって厳しい労働を強いたのであろうことは、例えば「御普請場格別難場、殊ニ六月已来七月暑中九六(黒)鍬一同日々出精為致候処、次第ニ人力も終候様相見申候」ために、労働の差によって一番の者に二〇〇文、二番の者に一五〇文、三番の者には一〇〇文と、三〇日の特別報償金を与えたり、また「九六鍬人足共暑中不厭廉直褒立格別出精いたし候ニ付」一統へ酒代を特別に下付したりしている(慶応二年 石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳 大友文書)。
かくして五月より着工し、その規模の大は五間幅で最深六尺七寸から、小は三尺幅で深さ一尺などの、後に大友堀などと通称される堀割を含め、大小総延長三二一六間一尺(約五・八四七キロメートル)におよぶ用排水路を中心とした第一期工事が、九月九日をもって完成したのである。なおこれら御手作場としての基盤整備工事は、引き続き慶応三年と四年(明治元年)にも施行されている。