新たな北海道の支配体制として開拓使が置かれ、その支配権力を発動する場としての本府の位置も問題になってくる。開拓使設置以降この問題にかかわる動きを振り返ってみると、まず二年七月二十三日鍋島長官・清水谷次官・島判官に対し、「石狩」への出張を命じた。函泊事件以後の八月十一日外務省の北地出張案では、長官等の石狩出張は棚上げされて石狩は兵部省支配とされ、長官あるいは次官の赴任先は「箱館」となった。八月二十一日の岩倉案では、案件の沢長官の赴任先は「箱館あるいは石狩」と流動的な表現をとっている。そして実際に東久世長官が九月二十五日着任したのは「函館」であった。このように本府と確定しているわけではないが、要するに「諸地開拓を総判」する開拓長官の居所として、「石狩」と「箱館」が挙げられていた。この間本府として両地のいずれが適当か、という論議は一切見られない。
そもそも「箱館」に奉行所を置いて蝦夷地を支配していた幕府も、北蝦夷地での日露の問題が顕然化するにつれ、新しい蝦夷地支配の拠点として「石狩」が唱導されてきたことは前巻で述べた(市史 第一巻四編一〇章)。そしてその石狩建府が現実論として認識されるまでに至った所で幕府は瓦解した。
幕府内で最も明確に石狩建府を実証し、また強く主張していた松浦武四郎は、その蝦夷通をかわれて箱館府から開拓使へと任用されていた。また石狩建府論の最大の依拠である北蝦夷地での日露の関係は、悪化の一途をたどっていた。したがって新権力・新体制のもと、また人心一新をかかげて北地対策を担う開拓使の拠点として、「石狩」になんら疑念はなかったものと考えられる。開拓使の最初の行動として、論議も見ずに長官以下を「石狩」に出張を命じたのは、その現われであろう。
ただ開拓の体制がいまだ整わない段階で、予期せぬ函泊事件が起こり、その当面の対応のため、すでに会津降伏人始末のため石狩開拓を計画していた兵部省に石狩支配をゆだねたのであって、本来の石狩建府の構想は破棄されたものではなかった。