島判官が札幌で本府建設を開始した当初、一つの難題として、会津降伏人の移住を図っている兵部省との軋礫があった。そもそも戊辰戦争において、反政府軍の中心であった会津藩は、明治元年九月二十二日に会津若松城を開城し、一万数千人にのぼる大量の降伏人を出した。その処置について政府は二年二月九日に至り軍務官に委任し、同時に参議の木戸孝允に対して「其方於ては兼々取扱致候ニ付、同官申合取計可致旨」を指令した(木戸孝允日記、以下木戸日記と略記)。その木戸は二月八日大久保に、一万四、五千人の降伏人の処置に要する一二万石のうち、九万石をもって蝦夷地開拓にあてがう案を示し、さらに「蝦夷地之方も段々見込も御座候」と述べている(大久保利通関係文書 二)。
ここに政府は二月二十日「今度会津降伏人蝦夷地ノ内発作部石狩小垂内三ケ所為開拓被移、右取扱方ノ儀ハ軍務官へ被仰付候条、彼ノ三ケ所同官へ可引渡旨御沙汰候事」(法令全書)と箱館府に指令した。三カ所は発寒・石狩・小樽内のことである。しかし当時蝦夷地は旧幕府軍の制圧下にあり、直ちに実行されたわけではなかった。