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「札幌表御用取扱向等伺書」の札幌本府

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 三年閏十月札幌詰を命ぜられた西村権監事・広川大主典・八木下大主典は「札幌表御用取扱向等伺書」(府県史料 国公文)として、その経営案を提示して決済を受けた。これには十二月とあるが、内容から考えて西村が函館を出発する以前の起案であり、十一月の誤りであろう。
 この「札幌表御用取扱向等伺書」から、札幌での本府建設計画の内容を以下に検討してみよう。
 まず第一条で、事務処理に関し西地の総括事務は小樽が取扱い、「廉立候件」は札幌で商議して軽重緩急により函館へ伺うなどの処置をするとしている。そして処置事項は月末に小樽から送られた書類を札幌が点検する、というように、西地の中心を他郡との関係で小樽と認めているが、上官である西村権監事が在勤する札幌が、それを監督する立場になっている。指令は「可為伺之通事」である。
 第五条で、松前の商民を札幌へ移住させることについて、「本府前面南へ豊平川銭函道両方ニ続キ市街羅列ノ見込ヲ付ケ開店為致可申事」としている。これを見て思い浮かぶのは、島判官の「石狩国本府指図」である。その計画図を見たままに、文字として表現したものである。指令は「可為伺之通事」である。もし西村たちが、三年中の建設状況を札幌で実地に把握してからこの伺を出したのならば、この記述ではなくなっていたであろう。なぜなら三年中に、小さいとはいえ本府建設予定地を縦断する新川が開削されているからである。したがって彼らは、三年中に進められた建設工事の上に「石狩国本府指図」計画の本府を建設できないことを知らなかったのである。これらのことから、この伺が函館で起案されていることが推測される。そうすると西村が函館を出発する十一月十六日以前に、この伺が提出されたと考えられる。
 第七条では、新道新川の着工分を早急に竣工させ、さらに交通の便をよくする見込をたてて、伺の上取りかかりたいという内容である。指令は「可為伺之通事」である。
 第八条は、諸官邸の建設についての伺である。判官邸用の材木を雪解け後は本庁舎用にしたいこと。島判官が持参してきた神鏡については「最前島元判官と相談致し置候山手の社地に先ず以本殿丈け」を春から建設したいこと。他に役宅はすでに一〇棟建設しているので増やさないが、もし増やす時は伺をたてること。仮牢屋は建てたいこと。さらに「下ケ札」で職人を増やさざるをえないことなどもあわせて伺っている。指令は、「判官邸に可取建。御神鏡安置所之儀は相応の地所相撰、今一応可相伺。其余伺之通」となっている。
 この他に官禄の渡し方などの会計関係のこと、犯罪の処罰のこと、移民のこと、物資補給の算段のこと、西部各郡の税金のこと、遊女屋などのことなどを併せて伺っている。全体的に見て西地の経営の問題と移民の問題に加えて、札幌への本府建設とその経営方法についての伺といえるものである。
 西村権監事は十一月十六日に函館出発(東久世日録)、十一月晦日に札幌に到着した(十文字日記)。広川大主典は十一月二十二日函館を出発する(細大日誌 函図、東久世長官『日録』では二十三日)。札幌着は十文字大主典の『日記』では十二月九日ころである。
 西村権監事は到着後十文字大主典と談話をして、島元判官の近況について伝えている。そして十二月十二日「川辺事の早山か為ニ広川事情を述ブ」、十三日「早山の事ニて、西村気を張て口上也、夫より段々ニ様子抔ヲ尽し口談ス、嶋氏の為且早山か不便ナレハ也」という記事が見られる(十文字日記)。何か島判官と早山清太郎にかかわる問題であろうか。二人が関わるとすると、前年の事業に関係することであるから、あるいは神社地選定の変更のことであろうか。