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手稲村への入植

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 石狩で年を越し残留したうち、一部は手稲村に入植することになった。白石手稲と両村に分かれることに決定されたのはいつか、その理由は何なのかについては不明である。ただ史料的に明確となるのは五年二月である。佐藤孝郷が石狩から二〇戸五八人の移動につき手配を要請した願書の中で、白石村は「都合百戸之村落ヲ成シ度、兼テ御詮議之上地割被成下候」(札幌・白石開拓史)と述べている。願書の末尾には、「願之通、白石村ハ百戸ニ充、残悉皆発寒村エ繰入ヘキ事」と開拓使の指令が記されている。これが手稲村への入植を示す唯一の史料である。
 おそらくこれ以前から、二カ所に分かれることが決定をみていたと思われるが、これが二月に正式に決まったのである。理由は白石の方は湿潤地が多く、地所的にも狭隘であるという地形的条件、あるいは佐藤孝郷と三木勉との不和(白石発展史)も予想されるが、実際のところはわからない。
 発寒の入植地は、二月十二日に「発寒川北字ベツカウス東ニ手稲村ト相称ヒ候」(市史 第七巻二一三頁)と手稲村と命名された。入植過程を示す史料はないが、「一月ヨリ三月迄ノ内茅盧ヲ結ヒ、漸次五十戸移住セリ」(札幌区市街各村之開拓ノ顚末)といわれており、すでに一月に入植を開始し、三月に終了したようである。入植地はいまの西区西町から手稲区宮の沢にかけた、道道宮の沢・北一条線の両側であった。

図-3 手稲村入植図 『奥羽盛衰見聞誌』下巻より作成。


写真-17 松本十郎が手稲村入植の開拓使貫属に与えた書画(手稲記念館蔵)