おそらくこれ以前から、二カ所に分かれることが決定をみていたと思われるが、これが二月に正式に決まったのである。理由は白石の方は湿潤地が多く、地所的にも狭隘であるという地形的条件、あるいは佐藤孝郷と三木勉との不和(白石発展史)も予想されるが、実際のところはわからない。
発寒の入植地は、二月十二日に「発寒川北字ベツカウス東ニ手稲村ト相称ヒ候」(市史 第七巻二一三頁)と手稲村と命名された。入植過程を示す史料はないが、「一月ヨリ三月迄ノ内茅盧ヲ結ヒ、漸次五十戸移住セリ」(札幌区市街各村之開拓ノ顚末)といわれており、すでに一月に入植を開始し、三月に終了したようである。入植地はいまの西区西町から手稲区宮の沢にかけた、道道宮の沢・北一条線の両側であった。
図-3 手稲村入植図 『奥羽盛衰見聞誌』下巻より作成。
写真-17 松本十郎が手稲村入植の開拓使貫属に与えた書画(手稲記念館蔵)