この地域については次のような見方も可能である。初め島判官は、銭函から札幌への物資輸送を考えて銭函道の整備を行った。その後石狩が兵部省から開拓使の管轄下に入ったことから、佐々木貫三の新川開削などの整備により、石狩から水運による物資輸送が主要路となった。八年には札幌行きの物資は、輸送船で本州より小樽港へ運ばれ、御用船弘明丸、豊平丸に積み換えて石狩へ、さらに石狩川を遡って篠路へ、そこから曳き船で伏古川、大友堀、琴似川、創成川などを通って札幌まで運ばれた。夏は小樽銭函間を小船または人力で、銭函札幌間は馬背で、銭函道を通って物資を運んだ。この石狩廻りの水運による物資輸送は、札幌小樽間の鉄道が開通する十三年まで札幌への物資輸送の基本路線であった。したがって三年五月開拓使用達となった木村万平も、回漕店を創成川を挟んで本陣の東側に開いている。また二、三年頃に建設した開拓使の官宅官邸、後の官営の倉庫工場群も創成川に沿って設営された。商業移住の店々も、大通の南側の民地にあって、創成川沿岸を中心に展開していく。当然のことであるが、この物流の拠点に最初の商工民たちが移住して営業を開始したのである。また島判官もそのことを見越して、開拓の基点をこの地域に置いたのかもしれない。