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『札幌区劃図』の年代考証

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 図中の大通以南に記載されている名前を明治四年の『市中人別申出綴』と対比してみると、図中の人名は人別中の人名とほとんどが重複している。したがって『市中人別申出綴』から移住日が判明する者もいる。図中の人名には、吉田茂八のように以前から居住しているものから四年四月中に移住届を出したものまでが確認できる。『市中人別申出綴』には、四年五、六月の移住者も記載されているが、その名前は図中には記載されていない。また四月までに移住してきたことが確認ができる人びとでも、図中にはいない者もいる。
 さらに前述した四年中の建設物について比較してみると以下のようである。二月に建設が開始された六番官邸と思われる建物(四月竣工)、また三月に建設が開始された仮庁と町長屋(どちらも四月竣工)は図中に記載されている。しかし四月に建設が開始された空知通の少主典邸(五月竣工)は記載されていない。また大通以北東一丁目東側の官宅数棟は、田本研三が撮影した写真(八、九月頃)にはあり、本普請であるが、図中には本普請の記号ではない。これは建設中または建設計画を示していると思われる。しかし記入の仕方が他の記入のそれと違いすぎるため、これは後日の記入の可能性が大きい。このことから官民にかかわらず、『札幌区劃図』の建物の状態は、後日の記入と思われる分を除いて四年四月末頃までの状態を示していると判断される。
 ところが町区画については、すでに区画をしていることを示している部分とまだ机上の計画の部分とがある。大通以南の東地区の区画と大通以南の西二丁目が前者の例であり、本庁の区画は後者の例である。大通以南の西二丁目については、前述のように地割の伺が出されている。また、薄野遊廓は六月から道路工事が始まり、七月に薄野の名称が決まり、八月には薄野内の町名も決まる。薄野遊廓は、札幌全体の町区画にとっては四丁を占める大きな区画であり、都市機能としても一定の役割を占める施設である。そう考えると地図の範囲外になっているが、薄野が全く記されていないのも、薄野を区画または構想する以前の地図であることを示唆している。
 以上から考えて『札幌区劃図』は、一部後日の加筆はあるが、多くは明治四年四月末から五月初頃の状態を示していると考えるのが妥当であろう。