五年一月から三月頃に、当時の官側の日記類に記載された火事は、二月三十日現在の南一条東一丁目(細大日誌、十文字日記)、三月二十日豊平川向こう(細大日誌)、三月二十四日場所不明(公務摘要日誌)、三月二十六日御用火事(細大日誌、公務摘要日誌)、三月二十七日(十文字日記)である。
それ以前、札幌の建設に直接関係する火事が起こっている。三年十一月四日、五軒長屋であった一番使掌長屋(北大通西一)が荒井使掌宅から失火して焼失し(小樽往復 道図)、四年三月十八日建設中の判官邸が焼失した(東久世日録)。このように火事と札幌本府建設の進行とは大きなかかわりを持っていた。そのため三年十二月には火の元に注意することなどの布達が出され、四年三月十五日には府内で野火を付けることを禁止した(開拓使布令録)。その後も機会ある度に防火意識を高めるための布達が出された。もともと春は野火(野焼き)の関係で火事が多いのだが、その注意のなかでも五年一月から三月の僅か三カ月で数度の火事が官側の記録にある。この他にも東本願寺の当時の記録には、三月九、十二日の両度、近辺の野火で延焼しそうになったことも記されている(本府管刹役席日誌 東本願寺)。これでは開拓使側が野火・失火など火事に神経を払うのは当然である。この本府建設の進行と火事との関係に、この御用火事の背景が存在すると思われる。少なくとも『細大日誌』から見て、開拓使に火災予防の意識を確認できる。