三年に佐々木貫蔵の計画に端を発する、札幌本府から小樽方面への水路確保は、五年十月札幌運漕掛から、銭函へ向かう運河に対し茨戸へ向かう運河が建言された。それでは佐々木の議論と同様に、水路開削により軽減した運賃分を工事の費用にすればよいというものである。実数では年間五万石の輸送で、百石九八円五〇銭として四万九二五〇円、水路開削した後の運賃が三割減と見積もって、三万四四七五円となり、一万四七七五円の減少となる(開拓使公文録 道文五七三〇)。いささか気楽な説であるが、札幌の抱えた物価高と本府建設経費削減を真摯にとらえた説ともいえる。しかしこの建言は採用されず、篠路への水運は道庁時代までは琴似川または篠路川(伏古川)を淩渫して、水路を確保することで間に合わされた(開拓使事業報告)。
なお佐々木の建言で開削された新川は、七年に豊平川からの取水口に水閘を付設した際に創成川と命名された(開拓使事業報告)。この創成川は、大友堀の農業用水路の役割、佐々木以降の輸送路と湿地排水路の役割、そして工業局設置後は工業用水を供給する役割も持たせられ、大友堀の原形から順次整備されていった。最終的には、後述のように十九年原野排水運河設備として、琴似川から茨戸へ直線的に水路(琴似新川と呼ばれた)が開削され、現創成川の原形が完成した。